孫権(そんけん)の勢力の危機を救った英雄が二人います。一人は南下してくる曹操(そうそう)の大軍を赤壁の戦いで撃退した「周瑜(しゅうゆ)」。
そしてもう一人は、蜀より攻め寄せてくる劉備(りゅうび)の大軍を夷陵の戦いで撃退した「陸遜(りくそん)」です。周瑜は若くして病によって亡くなりましたが、陸遜は晩年まで孫権を盛り立てて、呉を支えました。今回はそんな陸遜の最期についてお伝えしていきます。
陸遜がなくなった年(最期)
陳寿の著した「三国志正史」の呉書によると、陸遜は183年に呉郡で生まれ、245年に荊州の地で没したと記されています。
周瑜は36歳で亡くなったのに対して、陸遜は63歳まで生きたのです。これは同じように孫権軍の総司令官を務めた魯粛や呂蒙よりも長く、その点においてももっとも呉に貢献した人物であるといえるでしょう。陳寿もまた陸遜をして「社稷の臣と呼ぶにふさわしいものがある」と述べています。まさに陸遜は呉の守護神的な存在だったわけです。しかしその最期はあまりに寂しいものでした。彼を倒したのは、魏でも蜀でもなく、主君である孫権だったからです。
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陸遜の死因は?
呉書には「憤死」とあります。簡単に説明すると主君である孫権のパワハラによって病没したわけです。これは曹操と荀彧の関係の最期に似ています。曹操は荀彧に空の贈り物をし、その意図を知った荀彧は自害したといわれています。孫権は陸遜に責め立てる使者や手紙を次々と送り付けて精神的に追い詰めました。甥の顧譚や顧承はそれ以前に流罪にされています。
忠義に篤かった陸遜としては耐えられない状況だったことでしょう。もしかするとそれを苦にして自害したのかもしれません。なぜ孫権との仲がこじれたのかというと、陳寿は「孫権が疑り深く、讒言をすぐに信じるから」と記しています。
この頃の呉は、長きに渡り後継者争いが繰り広げられていました。世にいう「二宮事件」です。ここで陸遜は太子の孫和を擁護し、嫡子と庶子の区別の重要性を書面にて繰り返し上奏しました。最終的には荊州から都に上って直接説明しようとしましたが、孫権に断られています。魯王・孫覇を後継者に据えようと画策する一派の讒言によって陸遜はすでに孫権に疎んじられていたのです。
陸遜の晩年は?
陸遜は亡くなる直前まで呉の最前線に立ち、呉を守りました。しかしこれが問題の一つだったのかもしれません。呉の丞相は、陸遜とは親族関係の顧雍(こよう)が長く務めていました。都にあって孫権の傍で政務をとったのです。顧雍の死後、丞相の座を受け継いだのが陸遜でしたが、最高司令官でもあったので、荊州にとどまったのです。都から離れた地にいたことが、つけ入る隙を与え、孫権との仲を疎遠にした原因だったのかもしれません。
諸葛孔明のように高い能力があり、同様に評価されたからの抜擢でしたが、陸遜はそれが諸刃の剣であったとは考えなかったことでしょう。陸遜が予想もせぬところで、老衰が孫権をむしばみ、生来の疑り深さを偏屈に強めていたのです。
三国志ライターろひもと理穂の独り言
孫策の娘の婿になったのは陸遜の他に顧雍の息子の顧劭がいます。顧劭は後妻として孫策の娘を迎えており、それ以前には陸遜の姉妹を妻にしていました。さらに顧劭の母親は陸康の娘です。
「孫家、陸家、顧家」は親戚関係だったわけです。ただし、呉という国は地元の名士・豪族の連合であり、三家の繋がりをねたんだ者も多かったのではないでしょうか。連合だからこそ生まれる巨大な派閥争いに陸遜もまた巻き込まれたということです。これをコントロールできなかった晩年の孫権の評価は低いものになっています。そして呉は滅びの道を進んでいくのです。陸遜について詳しく知りたいときは「はじ三」で検索してみてください。陸遜についての面白ニュースがたくさんありますよ。
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