三国志においては安定のボンクラぶりを発揮している益州牧、劉璋。そのダサさ加減は、自分より格下の張魯を怖れる余りに劉備を招き入れるという本末転倒ぶりを演じるレベルでした。しかし、これは晩年の話で若い頃の劉璋は結構有能で気性の荒い人だったのです。今回は知られざるヤング劉璋の逸話を紹介しましょう。
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若い頃は兄弟と共に長安にいた劉璋
劉璋は字を季玉と言い、劉焉の末っ子として誕生しました。父の劉焉は、後漢が崩壊する事を見越して自分で志願して益州に向かい、地盤を広げていきましたが、息子たちは三男の劉瑁以外洛陽に残っていました。
その後、董卓が洛陽を支配すると劉焉に頭を下げるように命じますが劉焉はこれを黙殺してやってきませんでした。これにより、洛陽に置き去りの劉焉の息子たち、劉範、劉誕、劉璋の立場は悪くなります。ただ、今後の事を考えたのか董卓は3人を殺さずに手元に置いておき長安遷都後は本拠地の郿塢に放り込んで獄に繋いでいました。
192年、董卓が呂布に殺されると、三兄弟は開放される事になります。3名は奉車都尉という献帝を守る地位になりますが、間もなく呂布と王允の政権は崩壊し長安は李傕・郭汜の支配下に入りました。しかし、劉誕、劉範、劉璋は殺される事なく、そのまま献帝に仕えます。
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運命の分岐点 父を説得する為に益州に向かい拘留される
益州で劉焉は五斗米道の張魯を傘下に加えて勢力を伸ばしていきます。こうして、張魯に命じて漢中から中央に繋がる橋を焼き落とし官吏を殺しました。劉焉は奢って、超デラックスな馬車を千乗作成するなど威勢を示しいよいよ後漢王朝に対して独立志向を強めてきました。
「劉君郎は益州で天子気取りです、放置すれば厄介な事になりましょう」
さっすが!同じ漢の王族の末裔同士、安定の仲の悪さですね。
そういう事なので事態を重く見た献帝は、「息子が説得すれば劉焉も言う事を聞くだろう」と末っ子の劉璋を説得に向かわせる事にしたのです。劉璋は献帝の要請で馬車に乗り、遥々益州に向かいます。これが、劉璋と他の兄弟達との命運を分けました。
194年3月、征西将軍馬騰が李傕と不仲になり叛き劉誕・劉範は馬騰に組します。反乱計画は途中で漏れて失敗し、馬騰は西涼に逃げていきますが、逃げる場所がない劉範と劉誕は報復に燃える李傕に捕えられ処刑されました。もし、劉璋が長安に残っていれば李傕につかない限り死は免れなかったでしょう。
【北伐の真実に迫る】
不幸が続いて病気になった劉焉は死去、劉璋は趙韙に擁立される
劉璋は劉焉の病気見舞いを口実に益州に入りますが、一人でも肉親が欲しい劉焉はこれ幸いと劉璋を拘留して長安に帰しませんでした。劉璋にとっては、これが馬騰の兵乱を逃れ益州牧になる重大な契機になります。
イケイケだった劉焉ですが老いと落雷によって本拠地の綿竹が焼けたり息子たちが馬騰の反乱に連座して死んだなどで精神的なショックを受けます。やがて、背中に悪性の腫瘍が出来た劉焉は非業の最期を遂げました。劉焉は後継者を定めなかったようですが重臣の趙韙は劉璋がボンクラで操縦しやすそうに見えた為に、後継者争いで主導権を握り献帝に上奏して劉璋を後継者にしたのです。
劉表を放逐して何とか支配を安定させたい劉璋
益州の支配が劉焉から劉璋に代わると隙を突こうとした劉表は、荊州別駕の劉闔を使って、劉璋に不満を持つ諸勢力を叛かせて益州を手に入れようと画策しました。そして劉璋の将軍の沈彌、婁発、甘寧を反かせ劉璋を撃ったものの意外に劉璋を支持する勢力が多く、敗れて敗走して荊州に入ります。なんとか劉表の攻撃を凌いだ劉璋は、李傕に使者を送って接近し、益州牧の地位を認めてもらい劉表討伐の命令まで手に入れるのです。
こうして、劉璋は逆に荊州を併呑しようと趙韙を出兵させます。趙韙は、荊州領内に侵攻し、朐䏰(くじん)に駐屯し、西暦200年前後まで劉表と血みどろの抗争を続けます。晩年は遊んでいるだけの劉璋ですが初期はアグレッシブですね。後年の肥満したおだやかオジサンとはイメージが違います。
劉表との抗争と趙韙の粛清で益州が斜陽に・・
しかし、趙韙は荊州の攻略にてこずり戦果を挙げられませんでした。これで、劉璋は趙韙に失望して処分する事を考え始めます。その頃、益州内部では長年続く兵乱に住民が劉璋を恨み不満が高まっていました。趙韙は、これを利用し民衆の不満を背景にし、無断で劉表と和睦して成都まで攻め上ってきました、やられる前にやれ、つまりクーデターです。
びっくりした劉璋ですが、まだツキは劉璋にありました。劉焉が益州制圧の為に組織した流れ者の混成部隊の東州兵が劉璋を支持し趙韙に叛いたのです。こうして趙韙は次第に不利になり部下の龐楽・李異に叛かれ殺害されました。かくして、ようやく支配の安定を見た劉璋ですが、東州兵に頼り切った為に東州兵は増長して略奪行為を繰り返すようになります。これにより人心はさらに劉璋から離れるようになりました。
おまけに、劉表と喧嘩している間に漢中の子分の張魯が急成長して劉璋の命令を無視するようになったのです。腹を立てた劉璋は成都にいた張魯の母と弟を殺害し張魯との関係は修復不可能な状態に陥ります。劉璋は龐羲に張魯を攻めさせますが、龐羲の軍事的な才能は趙韙以下で度々張魯に敗れたので、劉璋は防戦に転じる事になります。
三国志ライターkawausoの独り言
もう、お分かりですね、ここから劉璋は張魯の影に怯え曹操を頼ったり劉備を頼ったりする優柔不断なボンクラ君主にレベルアップするのです。つまり、益州は最初から弱かったわけではなく、劉表との抗争、趙韙との抗争が起こり、随分弱体化していたのです。元々は、事なかれ主義ではなかった劉璋は、益州を巡る抗争に疲れ、ああいうボンクラ君主にならざるを得なかったのでした。
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