兄弟はやっぱり家族?それとも他人?『三国志』兄弟列伝

2018年8月8日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

諸葛瑾と諸葛亮

 

皆さんには兄弟はいますか?

少子化の時代ということで一人っ子の方も少なくないでしょうが、

両親の「一人っ子だと将来不安に思うかも…」との配慮により

兄や弟、姉や妹がいるという人も多いと思います。

 

しかし、この両親の配慮が吉と出るか凶と出るかは運次第。

それはもう仲睦まじい兄弟姉妹だという人もいるでしょうが、

中には同じ腹から生まれたはずなのにあんな忌々(いまいま)しい奴の顔なんて二度と見たくもないわ!

と思っている人もいることでしょう。

 

そんな愛憎渦巻く兄弟関係ですが、

三国志』に登場する兄弟たちの関係はどうでしょうか?

今回は『三国志』に出てくる兄弟模様をさらってみたいと思います。

 

関連記事:三国志に登場する兄弟最強は誰だ!?三国志最強兄弟賞(SSK)

関連記事:義兄弟・張苞と関興はどこまでが三国志演義の創作なの?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



兄弟そろって優秀だった孫策と孫権

兄弟そろって優秀だった孫策と孫権

 

『三国志』の兄弟といえば桃園3兄弟を思い浮かべる人が多いと思いますが、

血のつながった兄弟と限定すれば呉の孫策(そんさく)孫権(そんけん)兄弟を

思い浮かべる人がほとんどではないでしょうか。

 

父を早くに亡くしてしまった不幸な2人ですが、

兄・孫策はその境遇に挫けることなく乱世に身を投じます。

そして父の無念を晴らさんと江東で頭角と現し始めた孫策。

この年の離れた兄の雄姿は孫権の青い目にも頼もしく映っていたことでしょう。

孫策

 

しかし、孫策はその強引すぎる性格が災いして恨みを買い、

あくる日刺客の手にかかって命を落としてしまいます。

死の間際、孫策は優秀な弟・孫権を後継ぎにすると言い遺しました。

 

そして兄に負けないくらい優秀だった孫権は、兄の言葉をしかと受け継ぎ、

見事呉国を築き上げて見せたのでした。

 

やっぱり自分が一番かわいいに決まってる!…張粛と張松

張粛と張松

 

張粛(ちょうしゅく)張松(ちょうしょう)は兄弟で共に劉璋(りゅうしょう)に仕えていました。

立派で堂々としていたという兄の張粛は劉璋に仕えることに

何の疑問も不満も抱いていなかったようですが、小男で風采の上がらなかった弟の張松は

劉璋という主君に不満タラタラだったと言います。

 

しかし、張松の方が間違いなく優秀で先を見通す力がありました。

張松は同じく劉璋に愛想を尽かしていた法正と共に

真の主君たるべき劉備を益州に迎え入れようと画策します。

 

張松の企みを知った張粛は自分に害が及ぶことを恐れて劉璋にすべてバラしてしまいました。

これを聞いた劉璋は張松を直ちに処刑し、その妻や子も皆殺しにしたのでした。

 

兄弟とはいえやはり他人といったところでしょうか…。

自分の身の方が大切だと思うのは仕方のないことですよね。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの  

弟の不始末は自分の不始末…縻竺と糜芳

縻竺と糜芳

 

劉備(りゅうび)が徐州を手にしてからずっと劉備に付き従ってきた縻竺(びじく)糜芳(びほう)兄弟。

劉備が留守中に呂布(りょふ)によって下邳(かひ)を奪われた際には

彼らはその資産を劉備のために投げ出してその危機を救いました。

 

彼らがいなければ劉備軍は全員野垂れ死にしていたわけですから、

劉備は縻竺・糜芳兄弟に大恩を感じており、

益州を得た際には縻竺を諸葛亮(しょかつりょう)よりも高い位につけたと言います。

 

しかし、弟・糜芳の方は蜀での待遇に不満を持っていたようです。

というのも、共に荊州の防衛を任されていた関羽(かんう)との折り合いがどうにも悪かったのです。

糜芳は自分を軽んじる関羽が樊城に出征しても積極的に助けませんでした。

 

また、自身の不注意で郡の物資を焼失してしまったについて

関羽がお冠だという噂を耳にして恐れを抱き、孫権に寝返ったのでした。

 

このために関羽は呉に敗北し、命を落としてしまいます。

これを聞いた兄・縻竺はすぐに劉備の前に出頭し、

自分を罰するように地面に頭をこすりつけて嘆願しました。

 

これを受けて劉備は弟の罪は弟の罪で兄の罪では無いと諭します。

しかし、それでも罪の意識が拭えなかった縻竺は

心を病んでついには亡くなってしまったのでした…。

 

殺してやりたいくらい憎らしい…曹丕と曹植

曹丕と曹植

 

偉大な父・曹操(そうそう)と心優しい母・卞夫人(ていふじん)の元に生まれた曹丕(そうひ)曹植(そうしょく)

曹操の後継ぎなど他の兄弟の役目と思っていた2人でしたが、

ひょんなことから第一・第二候補者となってしまいます。

 

順当にいけば兄の曹丕が曹操の正統な後継ぎとされていたのですが、

弟・曹植の側近たちが彼の詩文の才を持ち上げて

やいのやいの言いまわるものだから曹丕の心も穏やかではありませんでした。

 

その後正式に太子となった曹丕は曹植の側近たちを次々に排除しました。

そしていよいよ曹丕が献帝(けんてい)から禅譲を受けて皇帝を名乗ると

曹植は大声を上げて泣いたと言います。

   

三国志ライターchopsticksの独り言

 

説話集『世説新語』によれば、それを聞いた曹丕は曹植に対して

「自分が七歩歩く間に詩を作れ。できなければ死を賜う。」

と迫りました。

 

しかし曹植はすらすらと詩を詠んで見せたのです。

 

その内容は自分と曹丕の仲を憂いたもので、

流石の曹丕もこれには思うところがあったらしく死を免じます。

それでも曹植は遠く辺境の地に追いやられ、一生を寂しく終えたのでした。

 

関連記事:【権力を巡る兄弟の確執】曹丕&曹植 VS 後白河天皇&崇徳天皇

関連記事:【保存版】三国志に登場する兄弟をドーンと紹介!!【三國志兄弟物語】

 

夷陵の戦い

 
 

-三国志の雑学
-, , ,