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【第二次濡須口の戦い】曹操軍オールスターが登場する大会戦

2018年10月15日


 

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赤鎧を身にまとった曹操

 

 

第二次濡須口(じゅしゅこう)の戦いは、西暦216年から217年にかけて断続的に起こりました。この戦いでも曹操(そうそう)が親征している他に、夏侯惇(かこうとん)張遼(ちょうりょう)司馬朗(しばろう)藏覇(ぞうは)というような魏のオールスターが出演して、呉と激闘を繰り広げています。それでも三国志演義(さんごくしえんぎ)では知名度イマイチなのは、これも劉備りゅうび)諸葛亮(しょかつりょう)が絡まない戦いだからなんでしょうね。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操合肥の勝利を追い風に異民族を扇動し濡須口を目指す

第二次濡須口の戦いの地図

※山越族の反乱、地図はかなりいい加減です

 

 

第二次濡須口の戦いは、その前年の第二次合肥(がっぴ)の戦いに曹操が勝利した事に起因します。第二次合肥戦争は、仲が悪い事で有名な、張遼(ちょうりょう)楽進(がくしん)李典(りてん)の3名が力を合わせ、張遼が決死隊800名を率いて孫権の10万の軍勢を追いかけまわした戦いです。今回の戦いも第一次濡須口の戦いを上回る規模で、夏侯惇や藏覇、張遼などが参加し曹操も度々、濡須にやってきています。

 

ここでの曹操は前回の失敗を教訓にしてやや慎重になっていて、呉の内部の異民族である山越族(さんえつぞく)懐柔(かいじゅう)から始めています。鄱陽の民の尤突(ゆうとつ)や丹陽の賊将の費桟(ひさん)が曹操から印綬(いんじゅ)を与えられて身柄を保障され住民を扇動して丹陽で乱に参加させました。これには山越族数万が呼応し、陵陽(りょうよう)始安(しあん)(けい)でも同調者が出現してかなり大きな反乱に発展します。

 

 

 

孫権、陸遜と賀斉を使い、反乱を鎮圧

陸遜

 

そこで、孫権は陸遜(りくそん)(がさい)招聘(しょうへい)して二人に討伐させました。陸遜は費桟を担当しましたが、費桟の部隊はまとまりがなく、そこまで数が多くありませんでした。なので陸遜は一計を案じて、派手な旗幟(はたのぼり)を沢山持ってきて部下に分け与え一緒に角笛と軍鼓を与えて山の中に潜ませました。かくして夜になると、旗幟を振り、角笛を吹いて軍鼓(ぐんこ)を叩かせたので、大軍が来たと勘違いした費桟の部隊は逃げ散り即座に反乱は鎮圧されます。

 

陸遜は各地で山越族を呉軍に編入して数万を得、蕪湖(むこ)に帰還しました。賀斉の方も、ほぼ同じで陸遜と共に陵陽、始安、涇を鎮圧しています。ここでは、数千人を斬首し精兵八千を得たとあります。こうして、曹操の最初の一手は失敗してしまいました。

 

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの

 

 

西暦217年曹操が居巣に拠点を築くも・・

西暦217年曹操が居巣に拠点を築くも・・

 

西暦217年の正月、曹操は再び出撃し、巣湖(すこ)の近くの居巣(きょそう)に布陣して、そこに築城を開始しました。一方で孫権は濡須を保持して、孫皎(そんこう)周泰(しゅうたい)は度々出撃して曹操軍の攻撃を退けます。しかし、ここで疫病(えきびょう)からの風邪が蔓延して、多数の兵士が苦しみました。普通は風邪が、こんなに一斉に流行しないのでインフルエンザかも知れません。この時、少ない薬を兵士に優先して配っていた司馬懿(しばい)の兄、司馬朗(しばろう)罹患(りかん)して回復する事なく死去しています。

 

二月、曹操は濡須口を落とす為に進軍し、長江の西の郝谿(かくけい)に駐軍します。濡須塢は濡須口の一部で、朱然は(しゅぜん)大塢(たいう)、及び三関屯で待ち構え、孫権は濡須塢を守ろうと、さらにその前に築城を開始しました。

 

三国志時代の城を築く

 

 

濡須塢だけでも大変なのに、これ以上城を築かれてはたまらないので、曹操は張遼と藏覇を派遣、孫権の築城部隊を攻撃したので孫権は敗走負けじと孫権は、呂蒙(りょもう)蒋欽(しょうきん)に全軍の指揮を任せて濡須塢で守らせます。呂蒙は、前回の濡須口の戦いで築城した偃月塢に籠城し強力な弩を一万張り用意して、雨霰と矢の雨を降らせました。

 

三国志時代の弓兵

 

 

この強弩に阻まれて、張遼や藏覇は布陣を敷く事に失敗し、退却せざるを得なくなります。また、この時、藏覇配下の孫観(そんかん)は矢が左足に命中し傷がもとで死んでいます。

 

 

 

春まで粘った孫権が曹操を撃退

藏覇

 

戦線が膠着(こうちゃく)状態になり、3月を迎えると連日の豪雨が発生し長江の水位が上昇呉の水軍が、自在に動けるようになります。これにより魏の将兵は不安になり、もう退却したいと張遼に願い出ます。張遼も、潮時を感じますが、藏覇が止めました。

 

「まて、殿が我々を見捨てるわけはない、退却命令を受けてから退こう」

 

張遼は思い止まり、一日待機すると果たして、翌日には曹操から退却命令が出ます。こうして、五か月をかけて曹操はめぼしい戦果もなく退却しました。曹操は居巣に夏侯惇(かこうとん)を配置し二十六軍を任せ曹仁(そうじん)と張遼を残し孫権に備えました。

 

孫権は極めて慎重になり、濡須口には周泰(しゅうたい)を督としその配下として徐盛と朱然を置いて守らせます。この時に、古参の徐盛と朱然が周泰に従う事を不服として文句を言うと、孫権が周泰の服を脱がせて、その体の古傷を一々説明し周泰がいかに忠臣であるかを力説して納得させたのは有名です。

 

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

この後、孫権は荊州南郡を領有する関羽と()め、逆に曹操に接近して、形式上、臣従(しんじゅう)する事にして秘密同盟を締結します。それにより、挟撃された関羽が討ち取られてしまうのは周知の事実です。

 

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三国志平話

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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