袁紹は黄巾の乱平定に実は参加していなかった!袁紹は何をしていたの?

2019年5月29日


 

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後継者を決めずにダラダラする袁紹

 

袁紹(えんしょう)後漢(ごかん)(25年~220年)末期の群雄の1人です。

 

亡くなる袁紹

 

一時は天下統一までいきましたが、建安(けんあん)5年(200年)の「官渡の戦い(かんとのたたかい)」で曹操(そうそう)に敗れました。

 

袁紹

 

そこから、天下統一の覇権争いから脱落しました。

ところで、この袁紹は黄巾の乱の平定で活躍していたという話を、あまり耳にしません。なぜなら、マンガやドラマでも描写されない内容だからです。

 

そこで今回は袁紹と黄巾賊にまつわる話について解説します。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ヒッキー袁紹と5人の奔走の友

美化された袁紹に羨む袁術

 

結論から言うと、袁紹は中平元年(184年)の黄巾の乱の平定には参加していません。納得出来ないという読者もいるかもしれません。

なぜなら、KOEIが発売している『真・三國無双』シリーズでは袁紹は参加しているからです。

 

しかし、あれはゲームです。架空の話をいくらでも創作できます。正史『三国志』によると、史実の袁紹は洛陽(らくよう)にいたようです。滅多に人にも会わずに、家に引きこもっていたそうです。ただし、張邈(ちょうばく)何顒(かぎょう)許攸(きょゆう)呉子卿(ごしきょう)伍瓊(ごけい)だけは交際していました。

 

要するに、袁紹は友達が少なかったのです。

 

袁紹はこの5人とは〝奔走の友〟・・・・・・心を許しあい危難にかけつける仲間の契りを結んだようです。

劉備(りゅうび)関羽(かんう)張飛(ちょうひ)桃園の誓い(とうえんのちかい)のようなものですね・・・・・・

 

ちなみに、こんな変なことをしていたので、袁紹は中央政界から目をつけられていました。おかげで袁紹は叔父さんから注意を受けたそうです。

ちなみに5人の〝奔走の友〟はどうなったのかと言いますと、以下の通りです。

 

(1)張邈・・・・・・興平2年(195年)に曹操と戦って死ぬ。

(2)何顒・・・・・・時期は不明だが、董卓(とうたく)存命中に捕縛されて病死か自殺。

(3)許攸・・・・・・袁紹に仕えるが仲違いして曹操に仕える。

(4)呉子卿・・・・・・建安5年(200)に曹操暗殺を計画して死刑。

(5)伍瓊・・・・・・初平元年(190年)に董卓により死刑。

 

実に悲惨な結末ばかりです。しかも死刑になった友人に対して、袁紹は何もしてあげていません。

随分と安い友情ですね・・・・・・

 

 

 

黄巾の残党との戦い

黄巾賊

 

袁紹が中平元年(184年)の戦に参加していないことは分かりました。しかし、袁紹は黄巾の残党の掃討戦には参加しています。

中平元年(184年)の黄巾の乱は、年内に中央本部を倒しましたが、その後も残党が暴れ回りました。

 

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

代表的なものは青州黄巾賊(せいしゅうこうきんぞく)河北(かほく)の黒山賊・河東の白波賊(はくはぞく)です。初平3年(192年)に董卓が殺されたのを契機に、再び黄巾賊が勢力を盛り返しました。袁紹は河北の黒山賊の掃討に当たりました。

 

赤兎馬と呂布

 

この時に袁紹のもとに呂布(りょふ)がいたので、彼と一緒に戦いました。戦いは袁紹の有利に進み黒山賊の于毒(うどく)を討ちました。

 

張燕

 

また、総大将の張燕(ちょうえん)も袁紹に帰順しました。

 

呂布に敗れる張燕

 

この張燕の軍勢は建安10年(205年)に曹操に降伏するまで、袁紹の有力な軍として戦います。

 

呂布

 

 

劉備によるかく乱作戦

張飛と劉備

 

建安5年(200年)に袁紹は黄巾賊関係の人物を張燕の他にも引き入れていました。それは劉備です。劉備は当時、曹操に敗れて袁紹のもとに逃げ込んでいました。そこで、袁紹は劉備と同盟関係を結びます。

 

曹仁

 

劉備は黄巾賊出身の劉僻(りゅうへき)という人物と一緒に、曹操の後方をかく乱する作戦を立てます。しかし、曹操が派遣した曹仁(そうじん)により破られました。劉備は荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)のもとに亡命して、劉僻はどうなったのかは分かりません。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)』では討たれたことになっています。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が袁紹と黄巾賊の関係についてです。

 

袁紹が黄巾の乱平定に参加していないことは、今回の記事を書いている時に筆者も初めて知りました。

まだまだ勉強することがいっぱいありますね。

 

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黄巾賊

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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