官渡の戦いは曹操と袁紹の戦いであり、二人の三国志の英雄存在のぶつかり合いであり、運命を定めたと言ってもいい戦いです。
しかしこの戦いは色々な意味で非常に広く、いくつもの「戦い」が繰り広げられているので良く読んでいかないと今はどこで何が戦っているんだ…?ともなりかねません。そこで今回は官渡の戦いの一つとも言われる前哨戦、白馬の戦いの場所やどんな戦いだったのか詳しく解説していきましょう。
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白馬の古戦場は現在安陽市滑県と改名
三国時代の白馬の戦いが行われたのは、白馬県と呼ばれる場所です。他の戦いと同じく、戦った場所の名前が付けられている戦いですね。
しかしこの白馬という場所は今ではありません。現在は名前が変えられ、滑県と呼ばれている位置が三国時代でいう白馬の辺りに該当します。因みに地名で言うと中華人民共和国河南省安陽市に位置する県で、位置的な説明をすると北部は黄河の下流域にあります。
三国志でもここで曹操は中原を支配していた、袁紹は河北を支配していた、とあります。この中原とは黄河と長江の間にある地域、河北とは黄河より北を表します。つまり白馬の戦いは黄河を挟んでの戦いという訳です。
現代では白馬県があった辺りは農業区となっていて、しいたけなどの栽培が盛んです。酪農なども盛んな土地であり、中国の食産業を支えている地区となっているのですね。
四面楚歌の曹操に袁紹が襲い掛かる
さて白馬の戦いが始まる以前から、曹操と袁紹の戦いは避けられないものとなってきていました。曹操が勢力を伸ばして北上する以上、北にいる袁紹の存在は目障りとなってくるでしょう。
しかしこの時、曹操は呂布や劉備や董承やらとの戦いでいっぱいいっぱい!
今こそ曹操討つべし!と袁紹の軍師、田豊が進言するも袁紹は三男・袁尚が病気だからと却下。その後、地盤を安定させた曹操との戦いになると当然ながら曹操が攻めてきます。
田豊は沮授と共に持久戦をしましょう、と進言するけれどこれを却下。必死に持久戦を進言した田豊は投獄されます。
この頃の袁紹軍は、何と言ってもとにかく配下たちが対立しあっていてまとまりがないように感じられます。決して全員が無能ではないのですが…その無能ではないけれどまとまりがない配下をまとめられなかった袁紹に、段々と暗雲が立ち込めていくのもこの頃からです。
顔良・文醜を討たれるも物量でおしまくる袁紹
さてここで白馬の戦いが始まります。白馬の戦いの袁紹軍の先鋒は猛将として有名だった顔良。
三国志演義ではここで関羽が大活躍して一太刀で顔良を切り倒してしまうシーンですが、一説には顔良はこの時に劉備から「関羽がいたら説得してきて!」と頼まれていて戦う気がなかったにも関わらず、関羽が全く話を聞かずに倒してしまった…という話もあります。
真偽は置いておきますが、顔良は討ち取られ、後に顔良と同じく猛将だった文醜も曹操軍に討ち取られてしまいます。曹操軍は士気を上げ、袁紹軍は二枚看板を失いますが、実際にはまだまだ袁紹軍は強大。
曹操軍を追い詰めていき、ついに官渡砦にまで追い込みます。曹操はこの時に尽きかけて兵糧が尽きかけているために降伏も考えますが…ここで運命が変わります。
曹操の運命を変えたのが、袁紹軍の食糧庫烏巣襲撃です。
許攸がリークした食糧庫情報で曹操が逆転勝利
袁紹軍から寝返った許攸によって曹操は袁紹軍の兵糧庫の存在を知り、焼き払います。このことがきっかけになって袁紹軍は敗走。
つまり兵糧の存在こそがこの運命を決めたと言ってもいいでしょう。さてこの時点で白馬の場所は関係なくなっているのですが、現在の白馬県があった辺りは中国の食を支える農業、酪農地区。
つまり中国の食を支えている場所になっているのです…そしてこの「食」が曹操と袁紹の明暗を分けたと考えると意味深に感じてしまうのは…筆者だけでしょうか?
三国志ライター センの独り言
と、最後にちょっと妄想、こじつけをしてしまいましたが白馬の戦いとは官渡の戦いの前哨戦、その場所は当時の曹操と袁紹の陣地の境目、黄河の下流地域。まとめるとこのようになります。
官渡の戦いは有名ですが、その中には色んな戦いや思惑なども絡み合っているので、ぜひもう一度三国志を見直してみましょう。
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