徐晃の死因は正史と『三国志演義』では全く違う!?

2019年7月31日


 

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徐晃

 

 

徐晃(じょこう)(220年~265年)の将軍です。後漢(ごかん)の車騎将軍の楊奉(ようほう)に仕えていましたが、曹操(そうそう)の将来性に目をつけて主君替えをします。

 

 

曹操

 

 

袁紹(えんしょう)関羽(かんう)などの討伐で功績を挙げたので曹操(そうそう)から前漢(前202年~後8年)の周亜父(しゅうあふ)に例えられました。周亜父は劉邦(りゅうほう)の部下の周勃(しゅうぼつ)の子であり、前漢の呉楚七国の乱を鎮圧した名将です。

 

さて、今回は正史『三国志』と小説『三国志演義』のに記されている徐晃の死因について解説します。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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小説『三国志演義』での死因 孟達により射殺

孟達と孔明

 

 

魏の太和元年(227年)に魏の孟達は蜀の諸葛亮(しょかつりょう)と内通して謀反の計画を立てました。

 

 

孟達と劉備

 

 

 

孟達はかつて劉備(りゅうび)に仕えていましたが、関羽に援軍を送らずに見殺しにしたので処罰を恐れて魏に降伏しました。

 

 

孟達が魏に寝返って歓喜する曹丕

 

 

曹丕(そうひ)からは重用されましたが、その曹丕も黄初7年(226年)に亡くなり曹叡(そうえい)に代替わりしました。代替わりするとお気に入りの部下も代わるものです。

 

孟達は自分の将来に不安を感じたので、また蜀に戻る決意をして謀反を企みます。孟達はその話を部下の申耽(しんたん)申儀(しんぎ)兄弟に話すも、彼らは孟達の謀反に反対であり、すぐに司馬懿(しばい)に密告。

 

 

孟達を討伐する司馬懿

 

 

司馬懿は孟達が蜀と連携する前に、彼を取り押さえに向かいますが道中で徐晃に出会います。司馬懿から孟達謀反の話を聞くと、徐晃は先鋒として打って出ます。徐晃は孟達の城を囲むと降伏勧告を行いました。

 

ところが孟達は負けじと徐晃に目掛けて矢を一発。矢はなんと、徐晃の額に命中。徐晃は孟達と刃を交えることなく、あえなく即死しました。豪傑にしてはなんとも惨めな最期です。

 

 

 



正史『三国志』での死因 病死

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

 

もちろん、上記の話は小説『三国志演義』の虚構。

 

『三国志演義』は蜀正統論に立って記述されているので、魏や呉(222年~280年)の人間に対しては扱いが厳しいのです。それでは史実の徐晃の死因はどうなっているのでしょうか?

 

馬に乗って戦う徐晃

 

徐晃は太和元年(227年)に病死しています。曹操に仕えたことに対して満足しており、「古代の人々は名君に出会いないことを心配しているが、私は幸いにも名君(曹操)に会うことが出来た」と言い残しました。

 

病気が悪化するにつれて季節に合わせた衣服を着るようになったそうです。性格が質素倹約だったのでおそらく衣服に金をかけていなかったのでしょう。考え方によっては、普段から場違いな衣服を着ていた可能性も推測されます。

 

ただし、筆者は政治的パフォーマンスと考えています。後漢(25年~220年)末期は極度の質素倹約や親孝行をわざと人に見せびらかすことで政治評価を上げてもらうことが当たり前の時代でした。

 

劉虞

 

具体例は公孫瓚(こうそんさん)に討たれた劉虞(りゅうぐです。

 

劉虞

 

劉虞はボロの衣服と靴を身にまとっており、民と同じ立場にいることで評判が非常によかったのですが、公孫瓚に討たれて屋敷の家宅捜索が行われると驚愕の事実が発覚。

 

屋敷には財宝があり、妻妾は豪華な衣服を飾りを付けていたとのこと。つまり、劉虞は民をだました偽善者でした。正史『三国志』には「質素倹約」・「死後、財産が無かった」という記述は結構出ますが、これは全て割引いて読む必要があります。

 

おそらく、徐晃もタンス預金ぐらいはしていたと推測されます。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が徐晃の死因に関しての話でした。筆者は中学時代に横山光輝(よこやまみつてる)氏の『三国志』を読んでいて、徐晃が孟達に殺されるシーンを見た瞬間、びっくりしました。

 

「あれだけ強かったのに瞬殺かよ!」

 

嫌な気分になりましたね。ちなみに今では信じられないのですが、筆者の中学時代は今ほど三国志ブームが無かったので、クラスで三国志や無双シリーズの話をしてもドン引きされることが多かったのです。

 

時代は変わりましたね(笑)

 

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英雄の死因

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
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