曹丕と曹植は後継者争いなんてしていない?曹丕の功績から後継者争いを考察

2019年8月8日


 

 

皇帝に就任した曹丕

 

 

曹丕(そうひ)(220年~265年)の初代皇帝です。文帝(ぶんてい)とも呼ばれていますが、曹丕が有名なのでこの記事では曹丕で通します。

 

 

撃剣を使う曹丕

 

 

この曹丕はどのような功績があったのでしょうか?

今回は正史『三国志』をもとに曹丕の功績について紹介します。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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弟思いの曹丕?

典論を掘る曹丕

 

 

曹丕の功績は文学や戦など多いですけど、筆者が思い浮かべるのは後継者争いをした曹植(そうしょく)をかばっていたことでしょう。おっと、読者の皆様のツッコミが来る前に今日はこちらから返します。

 

 

枝豆と煮豆 曹丕と曹植

 

 

曹丕は曹植を冷遇したり、七歩以内に詩を吟じないと殺すという条件を出したことで有名、と言いたいはず。

 

 

曹植は軟弱ではなかった

 

 

確かに曹丕が曹植や他の兄弟に政治的権限を与えなかったのは本当の話。ただし、七歩の詩の逸話は、劉義慶(りゅうぎけい)という人が執筆した『世説新語』という説話集に記されているだけであり真偽不明な話。

 

 

「でも、後継者争いをしただろう!」

やっぱり、そのツッコミが来ますか・・・・・・

 

曹植

 

 

最近の研究で判明してきたのですけど、後継者争いそのものが皆無に等しかったようです。どうやら、曹植が残した文章からそんな風に読めるみたいですけど・・・・・・ここで通説で出されていた「長年の後継者争い」には疑惑が出現します。 さらに問題は曹丕が皇帝になってからの曹植の処遇です。

 

 

 



実は冷遇ではない曹植

曹植は軟弱ではなかった

 

 

通説では曹植は兄の曹丕の冷遇を嘆きながら、この世を去ることになっていますが彼のその後の処遇については以下の通りです。

 

黄初2年(221年) 鄄城(けんじょう)侯になる。

黄初3年(222年) 鄄城王に出世する。領地も加増

黄初4年(224年) 雍丘王になる。曹丕との面会も可能になる。

黄初6年(226年) 領地が加増。曹丕亡くなる。

太和元年(227年) 浚義王になる。

太和2年(228年) 再び雍丘王になる。

太和3年(229年) 東阿王になる。

太和6年(232年) 曹植亡くなる

 

上記の通り、彼は領地変更は多かったのですがそれでも出世したり、領地を加増されたりしています。

 

曹操と呂布

 

 

しかも最初に封建された鄄城は、かつて呂布(りょふ)曹操(そうそう)が争っていた時に、荀彧(じゅんいく)程昱(ていいく)が防戦した重要拠点です。そこに赴任させてもらえるというのは、もの凄い名誉!

 

これのどこが政治的冷遇なのか?つまり、曹丕は生きていた間は後継者争いなんてしておらず、曹植を可愛がっていた弟思いの優しい兄でした。

 

 

正史『三国志』は陳寿の改ざん歴史書!?

後継者争いをしている曹丕と曹植

 

 

それじゃあ、なんで曹丕と曹植が対立したと読者は勘違いするのか?

小説『三国志演義』のせい?

 

違います。正解は陳寿(ちんじゅ)の正史『三国志』にあります。実は正史『三国志』は曹丕と曹植が対立したと改ざんしたのです。信じられないかもしれませんが、そういう研究成果が出ています。

 

陳寿(晋)

 

 

なぜ陳寿はそんなことをしたのか?理由は彼が正史『三国志』を執筆していた時代です。

 

 

司馬攸

 

 

西晋(280年~316年)の初代皇帝の司馬炎と弟の司馬攸(しばゆう)にある問題が生じます。

 

司馬昭

 

 

司馬炎と司馬攸の2人は司馬昭(しばしょう)の実子ですが、司馬攸は子宝に恵まれなかった司馬昭の兄の司馬師(しばし)の養子になっていました。司馬昭は死ぬ間際、司馬炎と司馬攸のどちらを後継者にするか迷いました。

 

「司馬炎は長男だから継ぐのは当たり前・・・・・・だけど、司馬攸は兄の家系を継いでいる。兄の家系も尊重しないといけない」

 

三国志を統一した司馬炎

 

 

こんな感じで迷ったらしいですが、最後は部下の説得で司馬炎にしました。司馬炎と司馬攸の間には、上記のような後継者問題があったので、2人はその後政治的対立を起こし、司馬攸が敗北して不遇の最期を遂げることになります。

 

西晋に仕えていた陳寿は当然、この事件を間近で見ています。書きたいですけど、リアルタイムの内容は書けないのでそこで曹丕・曹植兄弟に転写しておいたのだと考えられています。

 

その結果、曹植=悲劇の弟 曹丕=冷酷な兄の図式が出来て今日まで伝わったのです。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

 

以上で曹丕の功績に関しての記事です。

 

曹丕はどうしても、ゲームやマンガの影響で冷酷な人の印象があります。そう言われてみれば曹丕で思い出したのですけど昨年、筆者は「三極姫4」というゲームに凄く熱中しました。

 

曹操・曹丕ペアで攻撃は最強だったことを今でも覚えています。

 

※参考文献

・津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』84―4 2003年)

・津田資久「曹魏至親諸王攷-『魏志』陳思王植伝の再検討を中心としてー」(『史朋』38 2005年)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
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