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郭嘉と荀彧ってなんで袁紹に仕えていたの?

2019年8月17日


 

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郭嘉と曹操は意気投合

 

郭嘉(かくか)荀彧(じゅんいく)曹操(そうそう)を支えた軍師です。郭嘉は建安12年(207年)、荀彧は建安17年(211年)に亡くなったので、残念ながら曹操が魏王に就任する姿を見ていません。

 

袁紹

 

曹操の覇業の草創期から仕えているように見える2人ですが、実は袁紹にも仕えていました。今回は正史『三国志』をもとに、荀彧と郭嘉がどうして袁紹に仕えていたのか解説します。

 

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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2人は同郷関係

郭嘉を推薦する荀彧

 

荀彧と郭嘉は豫州潁川郡の出身であり2人は同郷関係です。荀彧と郭嘉って繋がり無いと思ったらあるのですね・・・・・・豫州潁川郡は昔から秀才が出る土地として有名でした。

 

曹操に憧れる荀彧

 

荀彧もその1人で若い時から、「王佐の才」・・・・・・君主を補佐することに長けた才能と人から評価されていました。郭嘉は曹操から「わしの大業を成就させるのは、必ずやこの者だ」と激賞されていますので、かなりの秀才だと分かります。

 

荀彧と袁紹

 

2人に共通していることは、曹操以前の主人が袁紹(えんしょう)だったことです。

 

 

荀彧・郭嘉辞職・・・・・・そして曹操に仕える

戦争をせずに宴会ばかりしている韓馥

 

荀彧は当初、同郷の韓馥(かんふく)を頼って、一族を連れて冀州まで行きます。

 

被害妄想で怯える韓馥

 

しかし初平2年(191年)韓馥は袁紹から圧力をかけられて一戦もしないまま、冀州牧の地位を明け渡しました。さて、冀州に到着した荀彧ですが主は韓馥からすでに袁紹に代わっていました。だが、袁紹が迎え入れてくれたので弟の荀諶(じゅんしん)、同郷の辛評(しんぴょう)郭図(かくと)と一緒に袁紹に仕えることにします。

 

ところが、荀彧は袁紹が大事を成し遂げる人物ではないと見限って、すぐに立ち去りました。一方、郭嘉も袁紹の冀州支配後に仕えていますが、間もなく辞めています。

 

袁紹の悪口を言う郭嘉

 

その理由については同僚の郭図と辛評に、「袁紹は周公旦(しゅうこうたん)の形ばかりを真似て中身がありませんね」と語っています。周公旦というのは殷の紂王(ちゅうおう)を討伐した武王(ぶおう)の弟であり、中国では聖人君子のお手本のような人物です。

 

郭嘉は袁紹が偽善者にしか見えておらず、だからダメ君主のレッテルを張っていきました。袁紹のもとを去った荀彧は初平2年(191年)に曹操に仕えてますが、その時に曹操から「私の子房(しぼう)が来た」と言われました。

 

張良

 

「子房」というのは、前漢(前202年~後8年)を支えた軍師である張良(ちょうりょう)(あざな)です。郭嘉は荀彧の推薦により曹操に仕えますがその時に郭嘉は、「本当の私の主君だ!」と喜んでいました。

 

 

豫州潁川郡はエリートの集まり

袁紹

 

実は袁紹は豫州潁川郡の人をわざと集めていた形跡があります。先ほども言ったように豫州潁川郡は秀才が排出される土地で有名なのです。

どんな人がいるかと言えば以下の通り。

 

・荀彧→後漢(25年~220年)のエリート官僚の家柄。

・辛評→袁紹配下。

・郭嘉→曹操配下。

・郭図→袁紹配下。郭嘉の一族(?)

 

「えっ、こいつも?」と思うかもしれませんが、間違いありません。郭図に限っては郭嘉の一族と筆者は推測しています。

他にも陳羣・荀攸なども豫州潁川郡出身ですし、彼らは荀彧と親戚関係です。豫州潁川郡は親族関係で固められた土地でした。袁紹は豫州潁川郡のエリートを集めて自分の名声を挙げていました。

 

それでは、袁紹はなぜ「豫州潁川郡」という土地にこだわるのでしょうか。

 

 

豫州潁川郡の李膺

 

豫州潁川郡にはかつて、李膺(りよう)という官僚がいました。李膺は豫州潁川郡の秀才でした。また、宦官が政治介入することにも反対を唱えていたので他の儒学系の官僚からも人望が厚い人物だったのです。

 

当然、こんな人物は宦官にとって目障りとなります。延熹9年(166年)に李膺は逮捕されますが、この時は幸いにも命は助かり釈放されます。ところが、2年後の建寧2年(169年)に李膺は再び逮捕されました。近所の人は李膺に逃げることを言いますが、「みんなに迷惑がかかる」と言って李膺は逃げませんでした。

 

裁判の結果、李膺は死罪となりました。この時に李膺の他にも多くの官僚が逮捕されたり、死刑になりました。この事件を「党錮の禁」と言います。この時から、李膺は豫州潁川郡の人にとっては、神的存在になっています。

 

「李膺さん、まじでリスペクト!」という感じ。

 

李膺と同じ土地の人をヨイショすることは、自分の名声にも繋がります。だから、袁紹は豫州潁川郡の人を大事にしたのです。ただ、袁紹は昔から自分が気に入った人物しか付き合えない性格でした。だから、人をヨイショするのが苦手なので郭嘉や荀彧からすぐに見切りをつけられたのです。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

今回の記事を執筆していて荀彧と郭嘉が同郷という話は初めて知りました。しかも2人の関係が推薦・被推薦関係というのもびっくりしました。

筆者はこの2人は仲が悪いと思っていました。

 

やっぱり小説『三国志演義』と正史『三国志』ではコロリと印象が変わりますね・・・・・・

 

※参考文献

・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)

・山口久和『「三国志」の迷宮 儒教への反抗 有徳の仮面』(文春新書 1999年)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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