孫権と言えば父の孫堅・兄の孫策の偉業を継いで、呉(222年~280年)を大国にした人物として有名です。しかし偉人には光あれば闇ありです。
孫権は重臣の張昭にストライキを起こされた「公孫淵事件」、後継者問題で陸遜を死に追いやった「二宮事件」などがあり、晩年は評判がよくありません。
そして今回話すのは、呂壹という人物を信用したことから部下の心が離れてしまった「呂壹事件」です。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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呂壹とは何者?
まず呂壹ですけど、この人物は出身・生没年・家族構成など多くが不明です。また、登場時期も呉の嘉禾5~6年(236~237年)頃と推定されており、はっきりしたことは分かっていません。
仕事は「中書典校」・・・・・・呉の公文書検査係です。「性格は刻薄で規律は厳峻」と記されています。要するに、性格は良くないが仕事は出来る。ただし、規律違反には異常なほど厳しかったようです。
このような官僚を「酷吏」と呼んでいます。
酷吏とは?
酷吏というのは前漢(前202年~後8年)第7代皇帝武帝の時代に登用された官僚の呼称です。法律重視・性格に難点ありだが、仕事は出来る官僚なので民から恐れられました。
武帝が登用した酷吏の代表は張湯です。彼は中央で律令を定めて身分を問わずに法を用いたことから武帝に称賛されました。
だが、身分問わずに法を適用することは多くの敵を作ることでもあります。張湯は最終的に無実の罪を着せられて自殺に追い込まれました。死後に家宅捜索を行うと賄賂の品は何も出てこなかったので、清廉潔白な人物と証明されています。
子供か!?スゲーくだらない呂壹の報告
話が逸れましたが呂壹に戻します。呂壹は酷吏としては、どれほどだったのでしょうか?
呂壹が孫権に報告していた事例をみていきたいと思います。以下の通りです。
(1)顧雍
史料には罪状が記されていないことから、ゴシップレベルの罪で訴えたと考えられます。裁判が行われませんでした。
(2)朱拠
朱拠は朱桓の一族です。部下の金銭のトラブルを報告されて、本人も横領疑惑をかけられて軟禁処分となります。「部下の罪なので上司も責任をとるべき」という理論ですかね?
(3)鄭冑
呂壹の部下が罪を犯したので捕縛して処刑したら呂壹から逆恨みされて投獄される。
(4)刁嘉
政治批判をしたら投獄。
以上のように、ほとんどが幼稚なレベルの報告であり証拠はゼロ。(3)と(4)に至っては逆恨みと冤罪。前漢の張湯とは雲泥の差です。
呂壹の処刑と孫権の謝罪
ところが、やはり陰湿なことをしていると天罰は下るもの。皇太子の孫登を筆頭に次々と呂壹に対する訴えを出します。孫権も四方八方から圧力が来ては擁護出来ません。とうとう呂壹を処刑して、みんなに謝罪しました。
しかし、部下は今回の件で怒ってしまったらしく諸葛瑾・朱然・歩隲・呂岱も「民事は自分たちの管轄ではありません。陸遜と潘濬に尋ねてください」と孫権に塩対応。仕方なく陸遜と潘濬に聞くも2人は何も言ってくれません。
この時、孫権は気付きました。長年苦楽を共にした部下を粗末に扱っていたことに・・・・・・・自分が逆の立場になれば、どんな気持になるのかよく伝わりました。
そこで次の詔を出します。
「私は自分が正しいと思って行動していた。だが、それは間違いだった。私に間違ったことがあるのなら今後は遠慮無く言ってくれ!」
孫権が慕われる理由は、このように誠実なところがあるからだと考えられます。
三国志ライター 晃の独り言
以上が、孫権に晩年に起こした「呂壹事件」でした。筆者は孫権がなぜ、呂壹の報告を信じていたのか分かりません。50歳以上になって政治的判断が衰えたのか、ただ純粋に物事を信じてしまうだけなのか?
ただし、自分の悪かった個所を謝罪したのは深みがありますね。
※参考文献
・・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
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