黄巾賊は格差社会のセーフティネットだった!

2019年9月29日


 
はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし暴れる黄巾党と張角

 

後漢王朝に崩壊に繋がるダメージを与えた黄巾(こうきん)の乱。

その反乱の中心になったのは、太平道(たいへいどう)という教えを説く新興宗教の教祖張角(ちょうかく)でした。

 

張角は歴史の表舞台に登場

 

当初は、まるで流行しなかった太平道ですが、幾つかの要因が重なり百万以上の信徒を抱える大教団になっていきます。

巨大教団に成長した太平道ですが、その成功要因には、(しいた)げられた弱者を救済する太平道のセーフティネットがあったのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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後漢を崩壊に導いた2つの要因

洛陽城

 

従来、後漢王朝の崩壊には、霊帝期に始まる売官や党錮(とうこ)の禁によって行政システムが宦官(かんがん)の手中に入り、貧官汚吏(どんかんおり)蔓延(はび)った事が言われてきました。

しかし王朝というのは多かれ少なかれ腐敗しているものであり、そればかりを理由にして後漢が倒れた理由にするのは無理があります。

 

水滸伝って何? 書類や本

 

最近の研究では、後漢王朝を崩壊に導いたのは、以下の2つの要因が影響していたようです。

 

①異常気象

②豪族による土地の専有化

 

このたった二つの要因が後漢の崩壊に繋がったというのです。

では、詳しく見ていきましょう。

 

 
 

地球の寒冷化が社会不安を煽った

 

①の異常気象は、地球の寒冷化で紀元100年頃、後漢の中期頃から顕在化してきたようです。

後漢書には、永初4年(西暦107年)の記述として、

 

天下に飢餓が蔓延している。

人々は競うようにして盗賊になっている。

豫州では食い詰めた人間が万余も盗賊になっている。

 

このように記述しています。

 

kawausoと曹操

 

それが辺境の涼州や幽州なら何も不思議はありませんが、豫州(よしゅう)というのは、曹操(そうそう)の生誕地である礁県(しょうけん)がある中原の中心地であり

袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)張魯(ちょうろ)陳羣(ちんぐん)呂蒙(りょもう)荀彧(じゅんいく)許靖(きょせい)等、三国志を彩る人々を輩出。そして、生産と物流の拠点を周辺に持つ土地です。

 

疫病が蔓延した村と民人

 

そこに飢餓が蔓延し、万余の人々が盗賊になったというのですから異常気象は凄まじいものでした。

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

三国志の登場人物がまだ影も形もない頃から始まった寒冷化は、それから80年以上経過しても止まらず、

河北の袁紹は兵士に食糧を配給できず桑の実を食べて飢えをしのいだり、淮河に駐屯していた袁術も、食糧調達がままならずに、

ハマグリやタニシを兵士に支給していると正史三国志には記録されている有様でした。

 

 

袁紹や袁術の軍でさえ、そうなのですから一般の農民となれば土地にしがみついてもどうにもならず、土地を捨て盗賊になったり、

豪族の使用人に身を落としたり、都市に仕事を求めるなどして土地を離れていき、増々食糧生産能力が低下する悪循環が繰り返されていったのです。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの

 

異常気象の中で富を増やしていく豪族達

賈詡

 

多くのケースでは貧困国というのは全ての国民が貧しい事を意味しません。

富が極端に偏在して、一部が巨万の富を積んで大多数の人々が喰うや食わずそのような状況が固定している国を貧しいというのです。

 

商人で成功する糜竺

 

後漢王朝の場合もまさにそうであり、寒冷化によって土地を離れた農民がいる一方で、豪族層は、こうして手放された土地、

あるいは農民を借金のカタに取り上げて土地の収奪を進めていったのです。

疫病が蔓延している村と民人

 

それが②の豪族による土地の専有化です。

 

 

 

前漢時代、豪族は秦末の動乱で多くの豪族が生まれた事で危険視され、法によって権力を制限されていた豪族ですが、

王莽(おうもう)による新末の動乱ではこれら豪族が、王莽軍や農民の反徒である赤眉軍を倒す兵力を供出する事になります。

 

後漢を建国した光武帝、劉秀(りゅうしゅう)自身がその豪族の出身者であり彼は極力豪族と協調した政権運営を心掛けたので豪族は勢力を伸ばし

後漢が異常気象で衰えると、土地を拡大し零細(れいさい)農民を支配下において私兵化して行ったのです。

 

豪族が地縁社会を壊し太平道は疑似血縁共同体を組織

樊城の戦い

 

後漢の学者、崔寔(さいしょくによると豪族の横暴は以下のようでした。

 

豪族どもは莫大な財産を貯めこんでいる。

屋敷は広大で領地も広く、まるで王侯のような豪勢な暮らしだ。

連中は無頼漢を金で用心棒として雇い弱い人々を脅し、そればかりか用心棒どもは、

俺達は自由に人を殺してもいいのだと怪しからぬ言葉を吹聴してまわっている。

 

餓えた農民(水滸伝)

 

このような豪族の横暴に後漢王朝はまるっきり無策であり、自ら土地を捨てたり、土地を追われた人々は家族もバラバラになり

地縁・血縁社会から切り離される事になります。

無縁のままで彷徨(さまよ)う弱い人々にセーフティネットを提供したのが外ならぬ太平道だったのです。

 

張角が共同体を再編成し強力な黄巾賊が誕生

黄巾賊を率いて暴れまわる何儀(かぎ)

 

後漢書皇甫嵩(こうほすう)伝によると、張角の所業として以下の記述があります。

 

遂置三十六方 方猶將軍號也 大方萬餘人 小方六七千各立渠帥(きょし)

 

つまり、中華八州に三十六万の拠点を置いて、それぞれを方と名付けて大きいものでは万人余、小さいものでは六七千を率いさせて

渠帥(リーダー)を任命して統率させています。

これは、信者同士が元々共同生活を送っていたのを軍に再編したと考えられ張角は、太平道の教義を核に、

信者を一カ所に集めて共同生活をさせ疑似血縁家族を作り出したと考えられます。

曹操と黄巾賊

 

太平道には、貧しい人々ばかりではなく、死や病気の恐怖におびえる大商人や洛陽の宦官まで入信していたので、

彼らの寄進が、貧しい信者を食べさせる原資になったのでしょう。

 

黄巾賊

 

本来なら、後漢王朝が敷くべきセーフティネットを太平道が用意した、それこそ太平道が黄巾として後漢に対抗しえた秘密でした。

太平道の教えを信じた信徒達は、同じく教義を信じる仲間を家族と信じて漢王朝に叛いたのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

黄巾賊は本格的な戦争を長年経験していない正規軍相手に当初連勝します。

それを受けて朝廷は党錮の禁を解き、軟禁状態の豪族名士を呼び戻すと共に地方豪族からの義勇兵を集って兵力を強化しました。

 

黄巾を装着する黄巾賊

 

しかし、皮肉な事に、これら豪族の私兵も元は土地を追われた農民達でした。

黄巾の乱の主体は、黄巾賊へと流れた農民と豪族の私兵になった農民との理不尽な激突でもあったのです。

 

参考文献:史実三国志「演義」「正史」さらに最新発掘で読み解く、・呉・蜀

 

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黄巾賊

 

 

 

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