徐盛は呉(222年~280年)の将軍です。周瑜や呂蒙、陸遜などに比べると影が薄いですが最前線で戦っていた将軍の1人です。
張遼は魏(220年~265年)の将軍であり、合肥の守備に徹して呉を苦しめました。また、呉では張遼と聞けば泣く子も黙ると言われ恐れられています。今回は張遼が活躍した合肥の戦いと徐盛が活躍した濡須口の戦いについて解説します。
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張遼の奇襲と徐盛の危機一髪!
建安20年(215年)に曹操は漢中の張魯を討伐するために出陣しました。曹操がいなくなったスキを狙って孫権も急いで10万の軍を率いて合肥に出陣。
この時の合肥主の総大将は張遼、副将は楽進、李典、薛悌です。張遼・李典・楽進の3人は普段は非常に仲が悪いのですが、この時ばかりは一致団結します。
さて、薛悌は出陣前に曹操から、「困った時は、これを開けなさい」と言われた箱を持っていたので、早速開けました。中には曹操からの手紙が入っていました。
「張遼と李典はそのまま突撃。薛悌と楽進は守備を頼む」
普通なら「無理だ」と言います。実際に李典・楽進・薛悌は諦めています。しかし、張遼は違いました。
「曹操様は漢中に遠征中だ。救援が到着する頃には、我らは呉によって破られている。だからこそ包囲網が完成しないうちに頑張って戦うべきではないのか?」
それを聞かされると確かにその通り、とみんな納得。そこで張遼は800人の精鋭を選抜すると、到着したばかりの呉軍に奇襲を仕掛けました。この時、徐盛は先鋒として派遣されていましたが奇襲を受けて大混乱!大ケガを負った挙句の果てに旗まで奪われる始末・・・・・・
このまま討たれるのかと思った徐盛でしたが、救援に現れた潘璋と賀斉のおかげで助かりました。初戦で大打撃を受けた呉軍はわずか10日で撤退。張遼たちは見事な勝利をおさめました。
出陣前に胃が痛い徐盛
建安21年(216年)に曹操は濡須口に出兵します。濡須口には建安18年(213年)にも出兵しましたが膠着状態だけで終了しているので、今回こそ決着をつけようと思って出陣しました。建安22(217年)に魏と呉は対峙しました。
呉は呂蒙と蒋欽が総司令官です。この時、徐盛も従軍していましたが、徐盛はかつて地方官時代に蒋欽の部下を処罰しようとした経緯がありました。
どのような内容で処罰しようとしたのか史書は語っていませんが、孫権は蒋欽が遠征中であったことから許可を出しませんでした。その後はどうなったのかは不明ですが、この件以降、徐盛は蒋欽と会いずらくなります。
徐盛は蒋欽が総司令官になったのを聞いて嫌になりました。「こいつ、絶対に俺に仕返しするよ」と胃がキリキリと痛んでいました。
だが蒋欽の口からは、「徐盛、君ってスゴイね~」と誉め言葉しか出ませんでした。蒋欽は恨むどころか、徐盛の良いところばかり誉めるのです。
蒋欽はおそらく、徐盛が自分を恐れていると分かっていたので、敢えてべた褒めして懐柔したのでしょう。よくあるリーダーとしてのテクニックです。すっかり、蒋欽の言葉のマジックに引っかかった徐盛は凄いやる気が出てきました。
逆襲の徐盛
蒋欽のおかげで元気が出た徐盛ですが、今度は兵士がやる気無し・・・・・・それもそのはず徐盛の船が魏軍の目の前に座礁したのです。徐盛軍の兵士は誰も船から出ません。
「将軍、危ないですから救援が来るのを待ってからにしませんか?」
推測ですけど、たぶんこんなやり取りがあったと思います。怒った徐盛は自分だけ少数の兵士を連れて襲撃をかけます。
突然の襲撃に曹操軍は大損害を受けました。天候が回復すると徐盛は無事に帰還しました。孫権はその勇猛さに感心しました。徐盛は合肥での汚名の挽回に成功したのでした。
三国志ライター 晃の独り言 女性じゃない徐盛!
徐盛がどれほど知名度あるのかネットで調べようと思って検索しました。
「就労支援」、「人権問題」、「化粧品」・・・・・・徐盛ってそんなに使われているのかな?
ためしにいくつか調べてみると、全て「女性」関連でした。筆者が探しているのは女性ではなく徐盛!結局、探してみたところ大して見つかりませんでした。
思った以上に知名度は低いようです。
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