袁術は後漢(25年~220年)末期の群雄の1人です。短期間ではありますが、「仲」(197年~199年)という王朝を建国して皇帝に即位しました。
しかし、統治が上手で無かったので政権は長続きせずに最後は曹操が派遣した劉備に討たれました。この袁術は後漢に反抗して王朝を建国したので評判が良くありません。
そこで今回は正史『三国志』をもとに袁術のブラックな側面に注目してみましょう。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
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兵糧を送らない袁術
初平元年(190年)に諸侯は董卓を討伐するために一斉に洛陽に押し寄せました。袁術も諸侯の1人の中に入っていました。
進軍中に長沙太守の孫堅が、董卓討伐に消極的だった南陽太守の張咨を討ちます。孫堅は袁術に南陽支配権をプレゼントしてくれました。
これ以降、孫家と袁家の同盟関係が成立します。官位や家柄の関係で袁術が孫堅の上司になります。
孫堅はその後、陽人で董卓軍の華雄を討って功績を挙げますが袁術軍のある人物が、「孫堅がもし洛陽に乗り込んだら、もうあなたの命令に従わないでしょう・・・・・・」と言いました。
それを聞いた袁術は孫堅に心を許さずに兵糧をストップさせてしまいます。これは小説『三国志演義』にも出る話であり袁術を悪人にする話として有名です。さて、兵糧をストップされた孫堅は怒って袁術の陣まで夜から朝にかけて馬でダッシュ!
袁術の目の前で、「私が出陣したのは国家(後漢)のためでもあり、あなた叔父さんが殺害されたから、その仇討ちのためでもあるのです。董卓に恨みなんかありません。それなのに袁術殿は人の陰口なんて信じて、私を疑うのですか!」
注意された袁術は、スイマセンと謝罪して兵糧を送ることになりました。
南陽時代 徴税、戦争、失敗!
さて、南陽を統治することになった袁術ですが、おもった以上にうまくいきません。南陽は人口も多かったのですが、袁術が税を取り過ぎてしまいます。
おかげで民は苦しみました。おまけに当時、袁術は異腹兄の袁紹と不仲でした。袁紹は冀州の劉虞を新しい皇帝として擁立して董卓に対抗しようとしていたのですが袁術は猛反対!
おかげで天下は袁紹系の軍閥(曹操・劉表・韓馥など)と袁術系の軍閥(孫堅・公孫瓚・陶謙など)に分かれました。
初平2年(191年)に袁術は荊州の劉表を攻めました。出陣したのは袁術と同盟関係を結んでいる孫堅。ところが孫堅は劉表配下の黄祖と戦った時に、矢が命中して亡くなりました。また、袁術も曹操により撃退されて揚州まで撤退となりました。南陽時代の政治は散々でした。
皇帝時代 名門主義で失敗! そして滅亡へ
建安2年(197年)に袁術は皇帝に即位して、仲という国を建国します。袁術は皇帝になると自分の家柄をブランドとして使用します。袁術の家は「四世公輔」・・・・・・四代に渡り三公(司徒・太尉・司空)を出した名門の家でした。
皇帝になった袁術は腹心も名門の人物をそろえることにします。幼い頃から交際のあった徐州の名士である陳珪(陳登の父)や、司徒の張歆の子である張範・張承兄弟。さらに太尉の楊彪(楊脩の父)とは姻戚関係を結びます。
ところが交際のあった陳珪は子を人質にとられても袁術に従わないと言って仕えることを拒否。張承も袁術の正当性に疑問視をしました。このように袁術の皇帝即位は当時の人々から理解を得ることは難しかったのです。
それはなぜかと言うと、袁術は「四世公輔」という後漢の官職を利用しているにも関わらず、後漢の存在を否定するという矛盾が生じているからでした。当時の知識人の頭上には「?」が何個も付いたことでしょう。
後漢を否定するということは、その辺の反乱軍と同じ目線で見られていた可能性も高いのです。こうしたことから人々がついてくることはなく、袁術の国はわずか3年で滅ぼされることになったのです。
三国志ライター 晃の独り言
以上が袁術の悪政に関しての話でした。袁術は建国に関してはプランが早すぎたということが難点です。せめて後漢が滅びるか、献帝が亡くなるまで待ちながら行動するべきだったのではないでしょうか?
目先の利益につられて行動したから、おそらく失敗したのでしょう。こうして見たら、「なんだよ袁術ってダメな奴だな!」と読者の皆様は思うかもしれません。
でも袁術はダメな部分ばかりではありません。人として良い部分も持っています。今回は袁術のブラックな個所ばかり解説しましたが、次回は袁術のグッドな部分を解説します。
※参考文献
・渡邉義浩『三国志 演義から正史、そして史実へ』(中公新書 2011年)
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