呉(222年~280年)の神鳳元年(252年)に呉の初代皇帝である孫権は、この世を去りました。後を継いだのは孫亮です。
しかし、孫亮はまだ幼かったので後事を託されたのは諸葛瑾の息子である諸葛恪でした。
まるで劉備が諸葛亮に後事を託すことに似ています。だが、実際はどうだったのでしょうか?
今回は正史『三国志』をもとに孫権死後に政権を握った諸葛恪について話します。
「孫権 没後」
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諸葛恪 真面目で冗談が通じない
諸葛恪は諸葛瑾の長子です。子供の時から機転の利く子であり弁舌が得意でした。ただし、真正面から人を言い負かすクセがありました。
ある日、宴会の席でロバが出てきました。ロバの額には「諸葛子瑜」と書かれています。(子瑜は諸葛瑾の字)これはロバ顔の諸葛瑾をからかった宴会の余興です。決して孫権のパワハラではありません。宴会の席は盛り上がりますが、諸葛恪は自分の父親が馬鹿にされた気分であり面白くありません。
立ち上がった諸葛恪は何を思ったのか、ロバに「之驢馬」という字を足します。これで「諸葛瑾のロバ」という意味になります。孫権や周囲の人は、諸葛恪の機転の良さに感心して、そのロバを彼にプレゼントしました。
またある時、皇太子の孫登が諸葛恪に「馬の糞を食ってろ」と冗談を言います。無論、これはブラックジョーク。孫登に悪気はありません。
ところが諸葛恪はカチンときたらしく、「皇太子さまこそ、卵でも食ってなさい」と言い返します。その話を聞いた孫権は意味が分からないので諸葛恪に尋ねました。すると諸葛恪は、「卵も尻から出るので言い返したのです」と答えました。
こんな風に諸葛恪は、ちょっとしたジョークにも真顔で返すクセがありました。よく言うと真面目、悪く言うと冗談も通じず、周囲に対しての注意力に欠けている。とにかくマイナス面が多い人です。
諸葛亮も陸遜も心配していた
こんな感じなので父親の諸葛瑾は生前、息子のことを非常に心配していました。
「諸葛恪は頭が良すぎる。我が家を栄えさせるのもこいつかもしれないが、潰すのもこいつだ」
どうやら話は弟の諸葛亮にまで来ていたらしく彼も陸遜との書簡で、「諸葛恪は性格が大雑把であるところから兵糧管理は向きません」と述べています。
要するに自分と同じ後方支援は向くタイプではない、と斬り捨てています。また、陸遜も心配しており注意を促しています。
「その人を人とも思わない性格をどうかしなさい!」
これは大問題の叱責です。こんな人が呉の政治家になって呉は大丈夫なのでしょうか?
魏との戦いで大勝利!
神鳳元年(252年)に孫権は亡くなり、諸葛恪は孫峻・呂据・孫弘・滕胤と一緒に後事を託されました。このメンバーの中で孫弘は諸葛恪を暗殺しようと企みますが返り討ちにあいます。
残ったメンバーで政権運営を行うことになりました。諸葛恪が行った政治方針は孫権のように君主権力を拡大することではなく、呉の四姓(陸・張・朱・顧)などの知識人の力を借りることでした。
諸葛恪は早速、税の免除や呉の歴史書である『呉書』を編纂するなど知識人の優遇政策を行っていき人気を獲得します。
さらに侵攻してきた魏(220年~265年)の司馬師と諸葛誕の軍勢を迎え撃って敗走させることに成功しました。これを「東興の戦い」を言います。諸葛恪はすっかり、知識人や民の間で時の人になってしまいます。
諸葛恪の没落と暗殺
しかし、勝利を得た諸葛恪は気分が良くなったのか専制政治を行うようになりました。呉の宗室(=親族)が軍事拠点にいることが気に食わないので、左遷を次々と実行。皇帝と宗室を権力から遠ざけることにしたのです。
さらに諸葛亮の北伐のマネをして自分も北伐を決行します。周囲は諫めましたが、諸葛恪は聞き入れませんでした。呉の建興2年(253年)に諸葛恪は合肥新城に出兵します。
相手は魏の毌丘倹・文欽・張特でした。すぐに終わると思っていた戦いでしたが、3人は諸葛恪に徹底抗戦します。また、呉軍では疫病が流行り戦闘継続が難しくなりました。そこへ司馬懿の弟の司馬孚が援軍へ現れたので、諸葛恪は撤退を決意します。
帰国した諸葛恪は人々から非難を浴びました。最初に大人気だったのがウソのようです。諸葛恪は遠征の失敗から、政治仲間だった孫峻・滕胤とも対立しました。
さすがに「もうやってられない」と思った2人は孫亮の許可を得て、諸葛恪の暗殺を実行します。こうして諸葛恪は暗殺されてしまいました。享年51歳でした。
三国志ライター 晃の独り言 学者になっていれば一流だった
諸葛恪は結局、政治家に不向きだったと筆者は考えています。幼少期のロバや孫登との話から明らかに学者肌の人間だったと思います。おそらく学者として育っていれば、一流になっていたと思います。
ただし陸遜の「その人を人とも思わない性格をどうかしなさい!」というセリフから、虞翻みたいな変わり者になっていた可能性は高いです。下手をすると彼以上だったかもしれません。まあそうなると、若くして孫権の怒りに触れて殺されていたと推測されます。
※参考文献
・渡邉義浩『「三国志」の政治と思想』(講談社選書メチエ 2012年)
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諸葛恪が好き、やっぱり父の諸葛瑾の方が良いという人はコメントを送ってください。
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