諸葛亮の愛弟子で有名な人物は馬謖です。馬謖は建興6年(228年)の魏(220年~265年)への北伐を行った時に先鋒に任命されます。普通ならば経験豊富な魏延や呉懿が任命されるはずでしたが、諸葛亮はなぜか馬謖を抜擢。
一方、魏が用意したのは歴戦の名将の張郃でした。結果は蜀(221年~263年)の大敗に終わります。馬謖は大敗を招いた責任を問われて諸葛亮に処刑されました。さて、この馬謖には馬良という兄がいます。彼はどんな人でしょうか?今回は正史『三国志』をもとに馬良について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
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白眉最もよし
馬良は荊州襄陽郡宜城県の出身です。馬家は5人兄弟なのですが、馬良と馬謖以外の兄弟は何も史料に残されていません。馬良は字が「季常」と言います。中国では全てとは言いませんが長男には「伯(または孟)」、次男には「仲」、三男には「叔」、四男には「季」と字に付けていました。
だから曹操は長男なので「孟徳」、孫権は次男だから「仲謀」です。馬良は四男、馬謖は五男と分かります。馬良は兄弟の中でトップクラスの成績であり、眉の中に白い毛が混じっていたことから、地元の人々は、「馬家の五常、白眉最もよし!」と言っていました。
おそらく馬良は生まれつき眉の色素だけ薄かったのでしょう。この馬良の故事から数あるものから最も優れた人物の例えを「白眉」と呼ぶようになりました。馬良は諸葛亮を「尊兄」と呼んでいました。正史『三国志』に注を付けた裴松之は馬良の諸葛亮に対しての呼称から、2人は義兄弟の契りを結んでいた可能性が高いと推測しています義兄弟の契りを結んでいたのなら諸葛亮が馬謖を可愛がっていた理由が頷けます。義弟の弟なので面倒をしっかり見ないといけません。
劉備に仕える馬良
正史によると馬良が劉備に仕えたのは建安14年(209年)です。劉備が孫権に無断で兵を動かして零陵・桂陽・武陵・長沙を攻め落とした頃でした。『三国志演義』では伊籍の紹介となっていますが、正史にそのような記述はありません。おそらく諸葛亮の推薦が正しいでしょう。
建安17年(212年)劉備は益州の劉璋と交戦になります。戦いは2年間に渡り、建安19年(214年)に劉備軍の軍師である龐統が討ち死にしました。
その時期、弟の馬謖は益州攻めに随行していましたが、馬良は関羽・諸葛亮と一緒に荊州の統治に専念しました。劉備は龐統が戦死したので諸葛亮を呼び戻します。馬良はその時も荊州統治のために残留しています。
やがて雒城が陥落すると馬良は諸葛亮に「おめでとうございました」と手紙を送ります。その手紙の内容を気に入ったのか、劉備は左将軍掾に任命します。左将軍は劉備の官職です。「掾」は属官という意味。要するに馬良は劉備の側近になったのでした。
孫権に自分をアピールする馬良
ある日、馬良は孫権のもとへ使者として赴くことになりました。馬良は諸葛亮に対して、自分を孫権に紹介して欲しいと頼みます。「それじゃあ、今回の文章は君が書いてみれば」と諸葛亮が言いました。何事も経験です。張りきった馬良は孫権に文章を書きました。現代風に言えばエントリーシートです。あまりにも内容が「俺TUEEE」だったので、孫権も「おそれいります」と敬意を表しました。
馬良は2つの最期
蜀の章武2年(222年)劉備は関羽の仇討ちを名目に呉(222年~280年)へ出陣します。馬良もこの時、出陣して異民族に対して蜀の味方につくように説得します。この説得は成功しますが、呉は陸遜を出陣させて彼の火攻めの前に蜀は敗走しました。馬良はこの時に逃げ遅れて戦死しました。享年36歳。
馬良の死は小説では全く違っています。小説では戦死しておらず、蜀の建興3年(225年)の諸葛亮の南征の前に病死したという設定になっています。小説での享年は39歳です。おそらく正史での最期が悲惨なので、小説では天寿を全うさせたのでしょう。
三国志ライター 晃の独り言 年寄じゃない若者だ!
以上が馬良の解説でした。馬良ってマンガやゲームでは目立たない人だったのですけど、思った以上に目立ちたがり屋だったのですね・・・・・・
「俺ってスゴイでしょって!」って一国の君主である孫権に自分をアピールするなんて、大した度胸の人物です。
ちなみに馬良は「白眉」の印象のせいで、ドラマやゲームでは老けて見えます。だが、この人の活躍期間は23歳~36歳。若者なんですよ・・・・・・ちなみに、はじ三の馬良はピチピチの若者です!
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