小説家の吉川英治氏が執筆した『三国志』で趙雲は劉備の子である阿斗(後の劉禅)を救出するために、単騎で曹操軍に挑みます。有名な長坂の戦いです。この時に趙雲は曹操軍の将軍である張郃を討ちました・・・・・・
もちろんこれはフィクション。というより、原因は不明ですが吉川氏が考証ミスをしたようです。ところで張郃とはどんな人でしょうか。今回は魏(220年~265年)の五将軍の1人である張郃の曹操時代について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
「長坂の戦い 趙雲」
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曹操に仕える張郃
張郃は中平元年(184年)の黄巾の乱の際に、討伐軍に所属して活躍します。戦争においては臨機応変な対応がとれる人物だったので、敵に恐れられていました。黄巾の乱終了後、張郃は冀州の長官である韓馥に仕えます。しかし初平2年(191年)に韓馥は袁紹の圧力に屈服して冀州を明け渡してしまいました。
張郃は文句も言わずに新しい主である袁紹に仕えて、建安4年(199年)の公孫瓚との戦いで活躍しました。だが、張郃にも人生の転機が訪れました。建安5年(200年)に袁紹と曹操は官渡で天下分け目の大決戦を行います。
状況が不利であった曹操は袁紹軍の兵糧庫がある烏巣を襲撃して一発逆転!この時、張郃は烏巣まで援軍に行くことを提案。ところが袁紹軍の軍師である郭図は曹操の本陣が手薄になっているので本陣を突くことを言いました。
迷った末に袁紹はどっちの意見も取り入れることにします。とりあえず軽装騎兵で烏巣に行かせ、重装兵で曹操軍の本陣を攻撃しました。張郃は行ってみたが烏巣の救援には間に合わず、曹操軍の本陣も落とせません。もうダメだと感じた張郃は曹操に降伏しました。
張郃が降伏してきた時に曹洪は疑いましたが、近くにいた荀攸が説得してくれたので張郃は降伏を受け入れてもらえたそうです。曹操は張郃の降伏を聞くと「張郃が来たのは、韓信が項羽のもとを去って劉邦のもとに来るのと一緒だ!」と喜びました。
劉備は張郃を恐れていた?
建安24年(219年)に劉備は漢中を攻撃すると定軍山に陣を敷いている夏侯淵を攻撃します。この時、自陣でで火災が起きたので夏侯淵は鎮火するために劉備たちに見つからないように別道を通っていましたが、それを法正に読まれていました。
乱戦になった夏侯淵は討ち死に。総指揮官を失ったので魏軍は、「もうダメだ!」大混乱。しかし、この時従軍していた郭淮が「慌てるな、みんな。張郃将軍は天下の名将であり、劉備に恐れられている!今日の事態はひっ迫しているが、張郃将軍でないと収拾出来ないぞ!」と演説。
昭和の時代劇によくありそうなセリフです。言っている間に劉備軍に乱入されそうですけど・・・・・・とりあえず、ツッコミはここまでにしましょう。郭淮のセリフを聞いた兵士たちは「それもそうだ」と思って納得して落ち着いたそうです。張郃は陣を敷きなおしたので劉備は手出しが出来ませんでした。
正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた魏略という書物によると、劉備は夏侯淵を甘く見ており張郃を恐れていました。劉備は袁紹の客将だったことがあるので、張郃を知っていたのです。
夏侯淵を討った後に劉備は張郃が生きていると分かったので「1番の大物を逃した。こんなことでどうする・・・・・・」と呟きました。
三国志ライター 晃の独り言
烏巣を攻撃された時に張郃は烏巣の援軍に、郭図は曹操の本陣を突くことを提案して袁紹は迷った話を書きましたが、正直言うと、筆者が袁紹の立場だったら同じように迷いが生じていたはずです。下手をすると、袁紹みたいに「どっちも採用」という決断を下していたかもしれません。官渡の戦いは敗因の1つに袁紹の優柔不断な態度があったと言われますが、先述した決断を迫る時にどっちか1つを取るのは難しかったと思います。
だから、袁紹に責任をなすりつけるのはやっぱり間違った歴史観でしょうね。
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