三国志において一番天下に近かったのは、序盤においては董卓のように見えます。しかし、その見方は正しくありません。いかに董卓が涼州と并州の騎馬隊を率いていても、その威光は献帝あればこそであり、献帝を失えばそこまでの話です。
では、三国志の序盤で一番天下に近いのは誰か?それは袁術と袁紹の腐れ袁に決まっているじゃあないですか!今回は犬猿の仲だった二人が、もしラブラブだったら三国志はどうなったかを考えてみます。
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献帝なしで独立できる袁紹と袁術
そもそも皆さんは、袁術と袁紹を甘く見過ぎています。一見すると武力では、并州と涼州の騎馬軍団を従えている董卓が優位に見えますが、董卓の権力は献帝を操り人形にしているから発揮できる事で、献帝に逃げられてしまえば、地方の一群雄に転落してしまいます。これは董卓だけじゃなく曹操だって同じことです。しかし袁紹と袁術は違います。一体どう違うのか?ここから説明しましょう。
袁術や袁紹の先祖達は後漢で1世紀の間、四世三公を務めてきました。この三公、すなわち、司徒、司空、大尉は在野の人材を個人的に登用する辟召という特権を持っていたのです。通常、人材は、孝廉や茂才を経て中央に出て郎になり、数年下積みをしてから再び地方に飛ばされ、実績や能力により、県や郡の役人として振り分けられてキャリアをスタートするのですが、辟召は孝廉も茂才も郎になっての下積みもカットし、いきなり中央で役職に就ける出世の近道でした。
それが、一世紀の間続いたのですから、後漢の末には、自身が或いは先祖が袁家の辟召で引き立てられたという役人は何万人という人数に膨れ上がりました。彼らは袁家に何かを頼まれると断れないデッカイ恩義を背負っています。特に何の実績もない袁紹が反董卓連合軍の盟主に持ち上げられたのは、四世三公の威光があったからなのです。
もう一方の袁術も孫堅が南陽太守張咨を殺害した後、空位になった太守の地位に民衆から推戴される形で就任しています。二袁は先祖の功績により頑張らなくても結果がついてくる非常に恵まれた立場でした。あまた存在した三国志の群雄の中で献帝の威光がなくても自活できたのが袁紹と袁術なのです。
反董卓連合軍で二人が反目しなかったら?
ところが、二袁は三国志の序盤で早々に反目してしまいます。原因としては以下の2つが大きいです。
①袁術が孫堅を豫州刺史に任命。これに袁紹が対抗して周昂(周喁)を豫州刺史にし、孫堅の陣地を攻撃、袁術は孫堅と公孫越を派遣して応戦、公孫越が戦死した。
②袁術は劉表と不仲になり袁紹に一族(公孫越)を殺された恨みを持つ公孫瓚と手を組み袁紹と敵対、袁紹は対抗し劉表と手を結んで抗争した。
この確執があり、洛陽の東で勢力を二分していた二袁は激しく争う事になってしまい、袁術は匡亭の戦いで曹操に敗れた上、劉表に南陽への帰還路を防がれ、以後は寿春に拠点を遷しますが、疫病や天災、呂布との争いで衰弱して滅亡に向かってまっしぐらに進んでいきます。一方の袁紹は公孫瓚と激しく争い、西暦199年には公孫瓚を易京で踏みつぶすものの、その後の曹操との天下分け目の官渡決戦に敗北して滅亡していくのです。
二袁が反目せずに力を合わせていれば、洛陽の東で二袁に対抗できる勢力はなく、長安に籠る董卓に対しても圧倒的に優勢な兵力を維持できたでしょう。では、ここからは二袁が反目せず終始ラブラブだったと仮定してifを考えてみます。
二袁劉虞を立て献帝を廃す
元々、袁紹は外戚の何進の勢力だったので、董卓が何皇后の産んだ少帝劉弁を廃して即位させた献帝を認めていませんでした。その為、皇族の劉虞を擁立して董卓に対抗しようとしましたが、これに袁術が反対し、また劉虞も身の危険を感じて辞退し、プランは立ち消えになります。
しかしif世界の二袁は超ラブラブなので、袁紹の提案に袁術は「素晴らしいyo」と賛同。二大勢力の二人がOKとなると、他の群雄は表だって反対できず、劉虞も二袁の執拗な要請を断り切れず渋々新しい後漢皇帝として即位します。
そして、二袁は新しい皇帝劉虞の詔として献帝の即位を否定し少帝劉弁から帝位を引き継いだのは劉虞であるという正統性を打ち出すのです。
董卓は呂布に殺害され混乱の中西帝劉虞が長安を制する
西暦192年5月、董卓がボディーガードの呂布に殺害されます。これは王允の計略に呂布が乗ったものでしたが、王允には国家を運営する器量はなく、やがて処刑される事を恐れた董卓の元部下の李傕と郭汜が十万の兵力を纏めて長安に攻めよせ、呂布は勝てずに逃走。王允は殺害され、献帝は李傕と郭汜の手の内に落ちます。
ところが、李傕と郭汜の政治は、ひたすら略奪するだけの世紀末恐怖政治でした。はてしない暴政で混乱していく長安。本来の歴史ではこの頃、洛陽の西でも、呂布、劉表、劉備、陶謙、曹操、公孫瓚、袁紹、袁術が群雄割拠して抗争を繰り返し、中華を統一できる群雄は一人もいませんでした。
ですが、ifの三国志には、ラブラブの二袁がいます。経済的には東の長安よりずっと優れた洛陽では、劉虞の下二袁が睨みを効かせ、着々と洛陽の再建は進み、常に数十万の大軍を常駐できる状態に回復していました。
そこで、長安に残っていた賈詡は後漢存続の為には劉虞を担ぐよりほかなしと決意し、夜陰に紛れて献帝を長安から連れ出します。すぐに献帝不在に気づき、追っかける李傕と郭汜ですが、そこに黒山のような軍勢が立ちはだかりました。
袁紹「漢の天下を盗み、暴虐の限りを尽くす李傕と郭汜」
袁術「お主らの悪事は太陽の如くあまねく中華を照らす天子様の知る所」
二袁「我ら二袁が天子に代わってお仕置きよ!」
二人の号令一下、曹操、劉備、公孫瓚、劉表、孫堅のような群雄が五十万の大軍で李傕と郭汜に襲い掛かり秒殺、長安はあっという間に平定されてしまうのです。そして本来なら、偽皇帝として董卓に協力し漢室を汚した罪で処刑される運命の献帝についても、慈悲深い事で評判の劉虞が「まだ幼少のみぎりで董卓に強引に帝にされただけで汲むべき事情はあり、死罪はあまりに重い」として身分を庶民に落とすだけで済ませました。
if三国志ライターkawausoの独り言
このように二袁の持つ名門パワーは二人がラブラブでありさえすれば、誰も逆らう事ができない強力な統制力として作用し、李傕郭汜が長安で暴政を敷いて政権が末期的になる頃には、堂々と討伐軍を長安に進軍させて、再び漢の天下を安定させたでしょう。二袁の反目は、中華の歴史を数百年の混乱に追い込んだ元凶とさえ言えますね。
参考文献:二袁、後漢王朝を救った二人の名門の全て 民明書房刊(嘘)
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