三国志演義を読んでいると呂蒙の後継者として陸遜が選ばれるのは自然なこと。
しかし逆に正史三国志を読んだ人たちはここら辺りで間違いなく「おのれ羅貫中!朱然の扱い悪すぎるでしょ!」と怒りを夷陵の戦いでの孫呉の火計の如く燃やすことでしょう。
今回はこの呂蒙の後継者問題に関してどこで齟齬が生まれたのかを筆者なりに考えつつ、三国志演義では分からない朱然の活躍と有能さについても少し紹介していきたいと思います。
「陸遜 朱然」
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この記事の目次
呂蒙の後継者として指名されたが・・・
朱然は孫家に仕えて長く、呂蒙と共に関羽を捉えるまでにも山越討伐や濡須口の守備で手柄を立てていました。
219年に関羽は打ち破ることができたものの、同じ年に呂蒙は病によって亡くなってしまいます。
この際に呂蒙は死の床で孫権に「決断力と実行力に優れている朱然」と孫権に朱然を推挙したので、朱然は仮節を与えられて江陵の守備につきます。
しかしその後、陸遜が大都督に抜擢されたために実質的な呂蒙の後継者は陸遜となってしまいます。
呂蒙の言った「後継者」について
個人的な考えですが、呂蒙の言った「朱然を後継に」というのは対蜀作戦の指揮官として、「陸遜を後継に」というのは大都督の職位として、と筆者は思います。
これは正史三国志の陸遜伝にある記述ですが、荊州奪取後に降伏してきた長吏たちに金印などを授けたり、荊州の士人登用を進言したりするなど、陸遜は孫家の親族としての自分の立場をよく理解しつつ活用していました。
こういった方法で奪取した土地の名士たちと良い関係を築くのは戦時において重要ですが、これはあくまで名士であり、孫家の関係者でもあった陸遜にしかできないことです。
呂蒙は陸遜と朱然を上手く扱うつもりだったのではないか?
つまり、呂蒙は対蜀と戦いながら、その一方で重要な拠点でもある荊州の人々の心を掴んでおきたかった。そのため蜀と戦う戦闘指揮官としては朱然を、そして名士たちとのやり取りに関しては陸遜を都督として当てるつもりではなかったのかと思います。
恐らくこれに関しては呂蒙がもと長く生きることができれば成功していたのでは、と思いますが、結果として呂蒙の早すぎる死、そして夷陵の戦いが始まったことで色々な要因から孫権はそのまま陸遜を大都督になってしまったのだと思いますが、もしかしたら歴史には書かれていない話し合いもあったのではないかと思いますね。
朱然の活躍
さてここで少し朱然に付いてもお話しましょう。三国志演義ではほとんど何をしたのか分からないと言っても良い朱然ですが、正史において曹丕による三路侵攻、江陵防衛線で大活躍をしています。
この時には曹真を始めとした徐晃、満寵といった当時の魏のオールスター武将たちが10万近い軍勢を率いて攻め込んできますが、これを朱然は江陵で迎え撃ちます。
朱然は周囲を囲まれたまま、流行り病で兵士たちが倒れていく中でも必死に戦い続け、見事二つの魏の砦を破ったことから逆転、魏を追い返した彼の名は義にも呉にも知らぬものなし!となったのです。
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