三国志演義、もしくはそれをベースとした題材のものでよく劉備が言っているのが「高祖劉邦の血を引く者」。この劉邦とは項羽と戦い72回負けたのか72回目で勝ったのかで天下を取り、漢王朝を開いた劉邦のことです。
しかしこの「高祖」って何だろう?と一度は考えたことはありませんか?
実はこの高祖には面白いお話がありますので、ちょっとご紹介していきましょう。
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劉備のご先祖様
さて、前述したように劉備は「高祖の血を引く」と言っていますが、これはあくまで自称。これが皇帝によって認められたのはあくまで三国志演義の中のお話です。
ですがこの劉備の言い分も決して荒唐無稽ということではなく、劉家は子供、孫が多すぎて「家の名前が劉なら漢王朝の末裔の可能性がある」という事態でもあったのです。
個人的には漢王朝の末裔であるならドラマチック、末裔でなくてもそれを信じて生きている劉備はロマンチック、そうじゃなくてもそれを利用したとあれば狡猾ック(?)なのでどの説も面白いと思ってしまう筆者です。
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劉邦の最期
では時代はぐーんと戻って、そうして進んで、劉邦の最期に。一大英傑の一人である劉邦もまた、その生涯を終えました。彼の死に群臣たちは涙しながらも平民から身を起こし、乱世を平定し、漢の太祖とおなりになった。その功績はもっとも高きものであるため、高皇帝と贈り名しようと尊号を奉ります。
……お気づきになられましたか?
そう、劉邦の廟号は太祖なのです。
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高祖はどこから来た?
廟号とはお墓に刻む名前のようなもので、先祖と共に並べられる名前です。似たようなものに諡号がありますが、こっちはその名の通り「贈り名」であり、生前の評価に基づいて付けられる、おくられる名前です。
これに照らし合わせると劉邦は正しくは「太祖」と言うべきな気がしますよね。
しかし三国志でも劉邦は高祖と呼ばれている……やはり劉備は劉邦の血は引いていなくて間違ったのか……?
色々な憶測が出てきそうになりますが、この太祖と高祖についてはきちんとした考察があるのでご安心下さい。因みにぶっちゃけると史記でも「高祖」と呼ばれています(ネタバレ)。
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高祖と太祖
さて高祖と太祖の件ですが、高祖という廟号は、殷王朝の際に既にありました。そして劉邦は贈り名として「高皇帝」と奉られました。
また前述したようにしたように史記でも既に劉邦は高祖と呼ばれています。
これははっきりとはしていませんが、司馬遷、もしくは司馬遷が引用した書物で高祖と太祖、高皇帝がごっちゃになってしまい、最終的に「高祖・劉邦」とされてしまったのではないか、と言われています。
このため劉邦は「高祖劉邦と呼ばれるし広く知られているけど実際に廟号は太祖なので高祖は通称」という大変ややこしい状態が生まれてしまったのでしょう。つまり「正確に廟号で呼ぶと太祖劉邦だけど、通り名は劉邦だしもうそれでいいんじゃないかな!」ということです。
史記でも高祖って呼ばれてるし子孫の劉備も高祖って言ってるからそれでいいよね!(思考放棄)
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