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司馬亮、実権を握る
恵帝・司馬衷は詔を下し、司馬亮は衛瓘、司馬瑋と共に輔政の任に就きます。ですが司馬瑋は粗暴な性格で司馬亮と衛瓘はこれを取り除こうと画策。司馬瑋は二人に不満を募らせることになります。そして同時にこの二人は賈南風にとっても邪魔な存在でした。
290年6月、賈南風は司馬衷に勅令を出させ、司馬瑋に司馬亮と衛瓘の逮捕をさせました。前回からまだ三ヶ月しか経っていないことにびっくりです。
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司馬亮「あんまりだ……」
この逮捕に司馬亮は抵抗することなく、捕らわれました。
「私の忠誠心は明らかなのに、どうして無罪の者を殺害しようとするのか」
暑い日の中、引きだされた司馬亮。その姿は誰もが哀れみ、処刑は中々実行されませんでした。あまりに暑い日であったためか司馬亮を気遣って車に連れて返し、兵士たちが扇で仰いだほどだったと言います。
これに怒った司馬瑋は叫びました。
「大叔父(司馬亮)を斬った者に布千枚を与える」
即座に兵士たちが殺到し、司馬亮は斬り刻まれました。髪は引き抜かれ、鼻も、耳も削ぎ落とされ……八王の乱の最初の犠牲者はここに無残に散ったのです。
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期待と失望
楊儀が行った件に、爵位のばらまきがありましたね。余談ではありますが、実は司馬亮もまた、同じようなことを行ったようです。楊駿討伐の功績として1081人を侯に封じただけでなく、大した功績もなかった娘婿を要職に付けました。
「人々は司馬亮と婚姻関係にあるから重用されているのだと噂している」
しかし残念ながらこの諫言は司馬亮の心には届かず。司馬懿の息子であり、諸葛亮と同じ名を持った司馬亮は、司馬一族に在りながら目立った功績はないまま、歴史の礎となったのでした。
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三国志ライター センのひとりごと
因みに処刑の翌日(重要)、司馬亮の処刑は司馬瑋の独断で行われ、詔を捏造したと賈南風は司馬瑋を誅殺。一応、一日で司馬亮の名誉は回復されたことになります。しかしこれは終わりではなく、八王の乱の始まりに過ぎません。
ここから国の混乱と破滅の時までどうか、この深謀遠慮渦巻く泥濘にお付き合い下さい。どぷん。
参考文献:晋書列伝第十 列伝第二十九
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