今回は三国志では中々馴染みのない八王の乱について、そしてその八王の乱の八人の王の一人、司馬亮についてご紹介していこうと思います。良くかみ砕くと「八王の乱で逝かれたメンバーを紹介していくぜ!第一の王!司馬亮!」ということですね。
中々壮絶な終焉を迎える人物なので、八王の乱の口火としてお楽しみ下さい。
※注意※胃もたれするほど「司馬」が出てきます。
汝南王・司馬亮
司馬亮は司馬懿の三男です。司馬師、司馬昭は異母兄で、同母弟には司馬伷、司馬京、司馬駿。
また異母弟にはこちらもいずれご紹介する八王のメンバー、趙王・司馬倫がいます。
司馬一族としてそれなりの地位で腕を振るっていましたが、諸葛誕の反乱で失態を犯して降格されていました。しかし晋王朝が開かれる頃には復権しており、司馬一族の長老として扱われます。そして277年8月、汝南王に改封され、鎮南大将軍に任じられました。
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司馬炎、崩御
290年、武帝司馬炎が崩御します。
司馬炎は病に倒れた際に皇太子・司馬衷の補佐を司馬亮と外戚の楊駿に任せると遺言します。
楊駿は姪が司馬炎の皇后になり、その死の後は娘が皇后になったこともあり、皇帝の外戚として専横を繰り返し、自分を称える者たちに爵位を与えるなど好き放題していました。こんな中で司馬炎が倒れたのです。
楊駿は秘密裏に司馬炎の遺言を改竄し、権力を握ろうと画策しました。それだけでは飽き足らず、司馬亮暗殺も企みます。
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許昌に逃れる
しかし楊駿の企みを察知した司馬亮は許昌に逃れます。この際にある人が「楊駿を討つべきでは」と進言をするものの、司馬亮はこの行動を起こすことはありませんでした。
こうして楊駿は司馬亮を宮中から追い出し、新皇帝司馬衷の権力をかさにやりたい放題を行います。楊駿は自分の人気のなさを理解していたのか、爵位のバラマキで人心を得ようとしますがこれは反感と混乱を招いただけでした。
そうして混乱する世の中に、ある人物が立ち上がりました。
そう、賈南風ですね。
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賈南風、楚王と立つ
賈南風は楊駿を除くようにと司馬亮に働きかけますが、司馬亮は動きませんでした。ならばと賈南風が手を組んだのが司馬衷の弟、司馬炎の五男である楚王・司馬瑋です。
そうして291年3月、クーデターが起こります。
楊駿とその三族、側近の者たちは誅殺され、司馬炎の皇后であった楊皇后も庶人にまで落とされ、監禁後に餓死させられました。
一連の流れが専横を止めさせようと働きかけたなら凄い行動ですが、賈南風が行動を起こしたことが「自分が専横するのに邪魔」「逆恨み」となっているので別の意味で凄さを感じさせます。
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