趙雲と言えば、三国志ではイケメンで武勇に優れた騎兵であり、特に近年は真面目に仕事をこなす様子が好印象で桃園三兄弟を上回る人気を集めています。
でも、趙雲って劉備の配下になる以前の事がよく分からない謎の人物でもありますよね?
たとえば趙雲は張飛のような平民でしょうか?
それとも劉備と同じ豪族なんでしょうか?
この記事の目次
騎馬に慣れている趙雲は豪族かも?
趙雲は冀州常山郡真定県の出身です。
元々は公孫瓚に仕えていましたが、公孫瓚が田楷を青州刺史とした時に劉備と共に従い、袁紹と激戦を繰り広げる事になります。
戦いは2年以上も続き、青州では兵糧が尽きて住民がお互いに食いあう地獄絵図が出現しますが、その極限状態の中で劉備と趙雲は戦友として固い絆で結ばれたようです。この際に趙雲は劉備の主騎となったそうで、元々馬を保有している家柄の人物だと考えられます。
庶民が馬を保有するばかりか、騎乗できるわけですから趙雲は生活に余裕があり、馬術の訓練が出来る程度の富裕な平民か豪族だったと推測できます。
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趙雲が公孫瓚に味方した理由
劉備に出会う前の趙雲で不思議なのは、どうして冀州出身なのに袁紹ではなく公孫?についたのかという点です。正史三国志趙雲伝に付属する趙雲別伝では、趙雲が袁紹には仁政の気持ちがなく民を虐げているので、袁紹よりは多少マシな公孫瓚についたと説明しています。
しかし、史書を読むと事実は逆で公孫瓚は名士を軽んじて弾圧し、任侠や占い師や商売人など当時は卑しいと差別されていた人々を重要なポストに就けたとあります。
逆に袁紹は北方四州で善政を敷き、それがために曹操は統治に苦労したほどでした。
それが事実なら、趙雲は富裕な平民で士大夫ではなく、士大夫に登用が偏重している袁紹に味方しても出世の目はないと考えて、公孫瓚についたのかも知れません。だとすると劉備よりは張飛や関羽に近い階層だと考えられます。
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長期の喪に服せるくらい金持ち
先に触れた趙雲別伝とは、趙雲の没後に子孫が記した先祖の伝記のようなものです。子孫が先祖を顕彰するので大袈裟な記述や嘘も混じっていると考えられますが、だからと言って全て嘘と断定する事も出来ません。例えば趙雲別伝には公孫瓚に仕えていた趙雲が兄の喪に服すために公孫瓚の軍から離脱し劉備とも別れた記述があります。
この部分は誇張とは無縁な部分に思えるので事実かも知れません。だとすると趙雲は兄が死んだ事で軍を辞めて喪に服しても食える程度に富裕な家の出自であり、また長男ではない事が分かります。
中国では喪に服すのは大変で、白い服を着て専用の小屋に籠り、悲しみを表す為に粗食に耐え、音楽も美食もウヒョ!も禁止、もちろんまともに働いてはいけません。その為、数年の喪に服せるのは金持ちか、親孝行が出世に影響する士大夫階級のみでした。貧しい農家などは喪を短縮していたので、趙雲の実家は金持ちなのでしょう。
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趙範に嫂を勧められたのは事実?
趙雲別伝には赤壁の戦いの後、趙雲が江南攻略に従って偏将軍となり桂陽太守の趙範に代わって太守を命じられ、そこで趙範に未亡人の樊氏を勧められるも、同姓を理由に拒否した逸話が載っています。
趙範は荊州の士大夫階級と考えられ、逸話が事実なら趙雲は少なくとも豪族であり、趙範と身分的に釣り合う可能性が考えられます。
しかし、趙範については正史三国志先主伝にも劉備に降伏した太守として名前が登場するものの詳しい経歴は一切不明ですし、趙雲が桂陽太守だったという記述は趙雲別伝にしか登場しません。
これは趙雲の子孫が趙雲の家柄にゲタをはかせる名目で、同じ趙姓の趙範をダシに使っただけで、樊婦人と趙雲の縁組話は創作じゃないかなとkawausoは思います。
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