魏の鄧艾と言えば蜀を滅ぼした名将として知られています。軍事に秀でた鄧艾ですが、実は内政にも力を発揮していたのです。特に関係深いのは「屯田」。鄧艾と屯田はどのような関係があるのでしょうか?
この記事の目次
農地の開墾に欠かせない?屯田とは
屯田の歴史は前漢の武帝の時代にさかのぼります。当時は漢の領土の辺境はまだ未開の地でした。
しかし、隣接する異民族の脅威に絶えずさらされている地でもありました。そこで行われたのが「屯田」でした。これは兵士を辺境に派遣し、平時は農地の開墾や農作業を行いながら、戦時には兵士として戦わせる、というものでした。
これにより、辺境地の防衛、食料の確保、新しい土地の開拓など軍事と内政の課題を解決させる画期的な政策だったのです。この兵士に行わせる屯田の事を「軍屯」と呼びました。
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曹操が屯田を導入
196年、曹操も屯田を導入することになりました。当時の曹操は皇帝「献帝」を傀儡とし、領土も拡大していました。
そんな中、当時の中原(中心地域)では戦乱が相次ぎ、流民の増大と農地の荒廃に悩まされていました。そこで発生するのが「食料不足」でした。
その問題を解決するため、流民に土地を与え、開墾をしてもらう事を思いついたのです。流民は生活が安定し、政府は食料を得ることが出来る、画期的な政策だったのです。曹操の屯田は兵士でなく、民が屯田を行うので「民屯」と呼ばれます。
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鄧艾も屯田に参加
後の名将、鄧艾は早くに父を亡くし、母子で貧しい生活を送っていました。
そんな時、曹操が鄧艾の故郷、荊州を攻略します。そこで鄧艾は故郷から離れ、汝南の地に屯田民として移住することになります。
当時は戦乱で発生した流民を強制的に屯田のために移住させることがありましたが、鄧艾の一家もそのような強制的に屯田として連れて行かれたと考えられます。なんにせよ、鄧艾一家は農民として開墾をしながらそこで暮らすことになるのです。
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鄧艾、役所に召し出され、農政を担当する
鄧艾は12から13歳の時役所に召し出されます。そこで鄧艾は農政をつかさどる部署に配属されます。
鄧艾は吃音を持っており、周囲に疎まれたため、なかなか出世することが出来ませんでしたが、ある趣味を持っていました。それはあちこちを歩き、地図を作製することでした。
山や沼を見て、「どこに軍営を置けばいいか」「ここを開墾すれば農地が開けるのでは」など、自分の地図にメモをしていったようです。周囲には奇特な目で見られていましたが、それがのちの出世につながるのです。
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司馬懿に才能を見いだされる
鄧艾は周囲には認められませんでしたが、苦学して出世し、都で当時の魏の権力者、司馬懿に謁見する機会が与えられます。そこで司馬懿に才能が認められ、中央政府で働くことになります。
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