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関羽を討つ
のちに呂蒙は荊州にて関羽と対峙することになります。呂蒙は関羽が魏を攻めている隙を突き、その城を落とそうと計画しました。しかし、関羽は呂蒙を警戒し、城に多くの守備兵を残しています。
そこで呂蒙は病気のふりをしました。関羽は安心し、城の守備兵を魏攻めに向かわせたのです。そこを呂蒙は突き、城を陥落させました。その占領地で呂蒙は住民や関羽の配下を圧遇したため、彼らはあっさりと投降したのでした。
関羽があわてて城に戻ると、全ての将兵、民衆は圧遇されており、関羽の配下は戦意を喪失してしまいました。
また、関羽は同僚や部下を見下す癖があり、一部で恨みを買っていました。その為、ある部下にあっさりと裏切られ、関羽は捕えられたのです。
このあたりのエピソードを膨らませ「三国志演義」は呂蒙を「正々堂々戦わず、策を練る卑怯者」というイメージにしたため、呂蒙の人気があまりないと考えられますね。
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「三国志演義」とはまったく違う最期
前述のように「三国志演義」では呂蒙は悪役の為、悲惨な最期を迎えます。関羽の霊に憑りつかれ、全身の穴という穴から血を噴出して死んでしまうのです。
その死亡した時期が関羽を倒した直ぐあとだったため、このような描写になったのかもしれませんね。
実際は関羽との戦いの最中には呂蒙は病になっていました。孫権は彼の病を心配し、孫権自身が病床に付き添っていたほどでした。
しかし残念ながら43歳の若さで亡くなってしまいました。呂蒙が亡くなると孫権は音楽を禁じ、食事も粗末な物にして喪に服したといいます。
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三国志ライターみうらの独り言
「三国志演義」は小説なので盛り上げるために呂蒙は仕方がなく悪役にされた、という感じですね。その為にちょっと人気が低いのは残念という気がしますね。
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