呉の呂蒙と言えば関羽を討った武将として有名ですね。そんな優秀な彼も「人気がない」と言われることがあるそうです。
それはなぜなのでしょうか?
呂蒙の人生と、その不人気を形成した小説「三国志演義」についても紹介していこうと思います。
小説「三国志演義」での呂蒙
三国志演義では呂蒙は孫権の下に集まった武将の1人として初登場します。そして民衆を公正に扱う人間として描かれています。が、蜀の武将関羽を策略に嵌め討ち取ります。
三国志演義では蜀が主人公で特に関羽は主人公の劉備を助ける重要なキャラですから人気もありました。
その為、関羽を討った呂蒙はその死に間際に「関羽の霊に取りつかれ、孫権を罵った挙句、全身から血を噴出して死んだ」というとんでもない最期になっています。
人気者の関羽を討ちとってしまったことから呂蒙は完全なる悪役にされてしまったのです。ちなみに呂蒙と共に関羽を討った潘璋も関羽の霊に取りつかれて死んでいます。
では実際の呂蒙はどのような人物だったのでしょうか?
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貧しい生まれで粗暴だった呂蒙
呂蒙の家はとても裕福とは言えない家庭でした。しかし、義理の兄が孫策軍の武将であり、彼の軍に勝手についていきます。
当然家族は激怒しますが、呂蒙は「貧しさから抜け出したい」という思いを語り、周囲を無理やり納得させています。
しかしその貧しい生まれと無学を馬鹿にするものが現れました。呂蒙はその発言に激怒し、なんと彼を斬り殺してしまいます。呂蒙は自首し、当時の呉のリーダー孫策の前に引き出されます。しかし、そこで孫策は呂蒙の才能を見抜き、家臣に採用したのです。
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数々の功績をあげる呂蒙
その後呂蒙は将軍として戦場で活躍することになります。劉表の武将黄祖討伐、そして曹操との戦いで功績をあげていきました。
有名な「赤壁の戦い」でも従軍し、曹操を撃破しています。呂蒙は特に策略を得意とし、曹仁との戦いでは罠を用いて彼を敗走させることに成功しています。
この「策略や調略が得意」という面も「三国志演義」での豪快な蜀武将の活躍を好む読者層には不評なのかもしれません。
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「呉下の阿蒙」
呂蒙は優秀な武将ではありましたが、学がありませんでした。その為主君の孫権に「職務の為にはもっと学問をしたほうがよい」と言われ、必死に勉学に励んだそうです。
そののち、学者も及ばないほどの実力になったとか。
ある日同僚の魯粛が呂蒙の元を訪ねました。魯粛は呂蒙に無学なイメージを持っていましたが、その博識に驚き「これでは呉の町にいたときのように“阿蒙”とは言えないな!」と感激したそうです。
“阿蒙”の“阿”は「-ちゃん」という意味で「蒙ちゃん」と子供扱いした言い方です。このエピソードが「呉下の阿蒙」という成語の成り立ちとなります。
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