王芬とはどんな人?党錮の残党にして合肥侯擁立事件の首謀者

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王芬とは?(1P目)




合肥侯とは誰なのか?

洛陽城

 

一方で王芬が手際よくクーデターの証拠を隠滅した事で不明の事もあります。王芬が担いで皇帝に即位させようとした合肥侯とは何者だったのかという謎です。王族である事は間違いないとしても現在に至るまで合肥侯が誰を意味するのかが、まったく分かっていないのです。

 

kawauso

 

或いは合肥侯というのは何らかのコードネームであり、当人の名前は一部関係者の中でしか共有されていなかったのかも知れません。いずれにせよ、クーデターが成功したら霊帝に代わり即位するはずだった王族の名前は、こうして歴史の闇に沈む事になったのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

こうして未遂に終わった合肥侯擁立事件ですが、それから5年も経過しない内に違う形で成し遂げられました。中常侍が先手を打って外戚何進(かしん)を殺害した結果、逆上した何進の子分である袁紹や袁術(えんじゅつ)が宦官を皆殺しにして報復を果たしたのです。

 

ミニチュアで遊ぶ董卓

 

ただ、それで生まれたのは清流派官僚の天下ではなく政治の空白であり、やがて董卓(とうたく)が洛陽に入城し後漢王朝は崩壊の時を迎える事になりました。

 

参考文献:正史三国志

 

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【曹操が断ったクーデター】
合肥侯擁立事件

 




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コメント

  • コメント (1)

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    • 月友
    • 2021年 4月 10日

    少し語りますね。
    合肥侯国を紐解くとこんな感じです。

    合肥侯
    堅鐔→堅鴻→堅浮→堅雅

    雲台二十八将の22位に位置する左曹の堅鐔が建武6年(西暦30年)から合肥侯となり4世に渡って約100年統治したとあります。
    そして合肥侯国が廃され、合肥県になったのは建安5年(西暦200年)の事です。 

    【サラっと考察してみる】
    流れ的に堅氏以降は後漢劉氏の一門が合肥に封ぜられたと思います。

    立弟弟 合肥侯。

    ↑本場中国のWEBを片っ端から見ると殆どが「立弟弟」とありました。これは霊帝の弟が合肥侯に封ぜられたと言うことでしょうね。

    現職の冀州刺史王芬がクーデター未遂で亡くなったのが中平5年(188年)とされてまして、翌年の中平6年(189年)には霊帝が崩御します。
    王芬の後に冀州刺史になったのが御史中丞を務めていた韓馥です。この韓馥は袁氏の故吏です。

    思うに奔走の友である許攸が動いていた所を見ると袁紹は何進派(袁紹親派)の刺史や太守を増やそうと暗躍していたように思える。
    もう少し噛み砕くとこれはただ王芬一人を排除して空席になった冀州刺史に袁氏の息の掛かった人物を送るための偽装クーデターだったのではないのか。
    役目を終えた許攸が報告のために袁紹のもとに引き上げたと思えば合点がいく。そしてここから先は伍瓊の仕事となる。

    奔走の友の役割を見ると何顒と伍瓊は朝廷内での内部工作を請負っており、許攸と張邈は外部勢力の親派作りと思えばわかりやすいかな。
    この奔走の友に深く関わるのが曹操です。そして奔走の友の協力者的な位置にいるのが陶丘洪。
    陶丘洪は劉岱を龍、劉繇を麒麟と評した人でもあります。

    【奔走の友の補足】
    何顒
    袁氏と荀氏を繋げるパイプとなる。後に荀爽・荀攸・王允・鄭泰らと連携して董卓暗殺計画を練るが荀爽の病死で計画が止まる。そして何顒は逮捕。残された王允が1人その計画を引き継ぎ呂布が動きます。(かの黄琬も手伝う)

    なお荀彧を「王佐の器(才)」と評したのはこの何顒なのです。何顒が亡くなるとその遺骸を荀彧が引き取り荀爽の墓の隣に葬りました。

    伍瓊
    董卓の信用を利用して韓馥(袁氏の故吏)・劉岱(陶丘洪推挙)・孔伷・張咨・張邈(奔走の友)などを刺史や太守に推した。そして伍瓊が推した人物の大半が反董卓連合に加担しました。
    なお南陽太守の張咨は孫堅に殺され、その後任の南陽太守には袁術がなります。袁紹と袁術の確執が見え始めるのはこの時からか。伍瓊は汝南の人。袁紹の奔走の友であり、同郷の者でもある。

    張邈と許攸は有名なので説明は要らないかな。
    敢えて言うなら張邈の所に呂布が転がってきたのは奔走の友の何顒の計画を引き継いだ王允絡みだったからかな。遊侠好きな張邈には呂布が壮士に見ていたのかもしれない。

    【最後に】
    合肥侯国は建安5年(西暦200年)まで存続していたわけだから、お咎めを受けなかった合肥侯(霊帝の弟。献帝の叔父)は王芬の死から約12年は生きていたと言うことになります。

    これ動画化しましたら、また書くと思いますがその辺は御容赦を。




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