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衛瓘とはどんな人?鄧艾と鍾会を始末した鍾会の乱の受益者

2021年4月13日


 

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衛カン(衛瓘)

 

 

衛瓘(えいかん)鍾会(しょうかい)鄧艾(とうがい)姜維(きょうい)というような鍾会の乱の首謀者や関係者に比較すると地味です。

 

 

鍾会を捕縛し殺害する衛瓘

 

 

しかし、衛瓘は鄧艾を逮捕して処刑し、鍾会の反乱にも同調せずに城外の魏兵を指揮して、鍾会を殺害し、反乱を未遂に終わらせるなど非常に重要な役割を果たしていました。

 

 

会議で蜀討伐が持ち上がり衛瓘の人生は大きく変わる

 

 

今回は、なんだかんだで鍾会の乱で一番得をした男、衛瓘について解説しましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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衛瓘の略歴

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

 

衛瓘は10歳で父を亡くしていましたが、母親への孝行を尽くす様は人並み外れていました。節操が堅くて物静かであり、頭脳明晰(ずのうめいせき)で清く公平であり実のある名声を持っていると称えられ西暦240年に尚書郎(しょうしょろう)に任じられます。

 

 

曹爽にアドバイスする鍾毓

 

 

 

その頃、曹爽(そうそう)一派が政権を掌握し、人心はこぞって曹爽一派の機嫌を取り交流を持とうとしましたが、衛瓘は彼らと親しくしなかったので硬骨漢の傅嘏(ふか)という人物に大いに重んじられたそうです。

 

 

傅嘏_フカ

 

 

傅嘏は鍾会と仲が良かったので、衛瓘もその線から鍾会と交友を持ったのかも知れません。西暦260年曹奐が即位すると、衛カンは侍中を拝名して持節(じせつ)を与えられ河北の慰労に当たり功績により食邑(しょくゆう)を加増され数年後には廷尉卿(ていいきょう)に移ります。

 

 

鍾会軍の軍監として従軍する衛瓘

 

 

 

衛瓘は法理に明るく、訴訟の裁決を行う際は、些細な案件も重大な事案も情をもって対応しました。西暦263年、征西(せいなん)将軍鄧艾と鎮西(ちんぜい)将軍鍾会が蜀漢征伐の兵を興すと、衛瓘は廷尉卿・持節をもって鄧艾と鍾会の軍事の監査を司馬昭(しばしょう)に命じられます。衛瓘は同時に行鎮西軍司(ぎょうちんぜいぐんし)に任じられ兵1000人を加えられて征伐軍に従軍しました。

 

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鄧艾の独断専行

鍾会

 

 

蜀討伐は、総大将の鍾会と鄧艾、諸葛緒(しょかつしょ)が中心となり漢中を陥落させ巴蜀(はしょく)に入りますが、姜維が諸葛緒の追撃を切り抜けて陰平から退却し、天然の要害である剣閣(けんかく)に籠城した事で膠着(こうちゃく)します。

 

 

毛布に包まり崖を転げ落ちる鄧艾(トウ艾)

 

 

飽きっぽい鍾会は退却を考えだしますが、地形マニアの鄧艾は剣閣を迂回して断崖絶壁を踏破して成都を陥落させるプラン。

 

 

前人未到のルートで蜀にたどり着いた鄧艾(トウ艾)

 

 

火曜スペシャル!鄧艾探検隊 蜀の秘境に漢の帝都(エルドラド)を見た”を提案。

 

 

鄧艾(トウ艾)と一緒に木を切り蜀に前進する鄧忠(トウ忠)

 

 

鍾会の許可を得ると、切り立った崖を登り岸壁を穿って桟道を通し、急な崖を絨毯(じゅうたん)にくるまって転げ落ちるなどの冒険進軍の末に突破し

 

 

鄧艾と全面対決で敗れて亡くなる諸葛瞻

 

 

綿竹で諸葛瞻(しょかつせん)を戦死させ劉禅(りゅうぜん)を降伏に追い込みました。

 

 

蜀を滅ぼし己の功を自慢しはじめる鄧艾(トウ艾)

 

 

蜀を滅亡させ最大の功労者になった鄧艾は、兵士の略奪を禁じ、劉禅以外の群臣の地位を暫定的に元に戻すなどして民心の安定を図りますが、この機に乗じて呉も滅ぼそうと考え、司馬昭の許しも得ずに戦争の準備を開始し、独断専行の動きを見せ、司馬昭の(いさ)めも聞かない状態になります。

 

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トウ艾

 

 

知略で鄧艾を護送車に載せる

トウ艾(鄧艾)が気に食わない鍾会

 

 

鄧艾に大手柄を奪われた鍾会は、この頃すでに益州(えきしゅう)を根拠地に謀反を起こし魏を滅ぼそうと画策していたので衛瓘を呼び出して鄧艾の処分を話し合いました。

 

 

囚人護送車に乗せられドナドナ状態のトウ艾(鄧艾)とトウ忠(鄧忠)

 

 

衛瓘も鄧艾の振る舞いは専横が過ぎると考えて賛同。鍾会は司馬昭に鄧艾が謀反を企んでいるので逮捕したいと書状を送り許可され、ほどなくして護送車が送られます。

 

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

 

 

衛瓘の役割は監査であり鄧艾を逮捕する役割でしたが、困った事が起きました。鄧艾の兵に比べて衛瓘の兵は1000名と少なく、鄧艾が命令に抵抗した場合、衛瓘が殺害される可能性が高かったのです。

 

 

独立したくウズウズする鍾会

 

 

その事は鍾会も承知していましたが、邪悪な鍾会は鄧艾が衛瓘を殺害すれば、より罪を重くできて好都合と考えていたようです。鍾会は本当に性格が悪いですね。

 

 

鍾会軍の軍監として従軍する衛瓘

 

 

しかし、衛瓘も負けてはいません。衛瓘は昼間に鄧艾と対峙する事を避け、夜中に成都に入ると鄧艾の部下を集めて(みことのり)を見せトウ艾に逮捕状が出た事を告げます。そして”従えば爵位と褒賞は保障されるが、詔に反逆するなら三族皆殺しとする”と伝えました。

 

 

鄧艾(トウ艾)と共に謀反の疑いで捕まる鄧艾と鄧忠(トウ忠)

 

 

これにより夜明けと共に鄧艾の部下の多くは衛瓘に味方し、衛瓘は使者の車で成都殿に向かうとまだ眠っている鄧艾と子の鄧忠(とうちゅう)捕縛(ほばく)します。

 

 

朝まで三国志2017 観客 モブ

 

 

一度は衛瓘に従った鄧艾の部下ですが、やはりオカシイと考え直し鄧艾を奪い返そうと武装して衛瓘の本陣に向かいますが、衛瓘は軽装でこれを出迎え、偽造した上表文でトウ艾が逮捕されるべき理由を詳しく述べたので鄧艾の部下は、これを信じて取りやめました。

 

危ないところでしたが、知略を駆使して衛瓘は鄧艾を捕縛したのです。

 

 

鍾会に謀反の仲間に誘われる

ローランド風 鍾会

 

 

鍾会は鄧艾の兵を吸収して成都殿に入ると、遂に謀反を開始。最初に自分の思い通りになりそうにない魏の牙門将軍(がもんしょうぐん)や郡守を招集して逮捕し成都の官舎に幽閉。次に成都城の全ての城門を閉じて、自分の思惑に従う兵士に城内を警備させ戒厳令を敷きます。

 

 

自分は天才肌だと勘違いする鍾会

 

 

鍾会は、自分の命令を忠実に実行した衛瓘を味方だと思っていたので、今後の謀反の計画について話し「幽閉した魏の将官は皆殺しにしようと思うがどうだね?」と相談します。

 

 

 

 

ちょっと、ちょっとぉ、この人、衛瓘が鄧艾に殺されれば、鄧艾の罪が増えて好都合と考えていた人ですよね?さっきまで見殺しにしようと考えていた人間を平気で謀反の仲間に引きこもうとするなんて、ちょっと神経を疑っちゃいますよ。

 

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衛瓘、謀反を拒否

冴えない人生を過ごした衛瓘

 

 

衛瓘は役目でトウ艾を逮捕しただけであり、謀反に加担する気はなく、これに猛反対したので、当然、鍾会と衛瓘の関係は悪化しました。

 

 

武将が胡烈に降伏を願う手紙が届く

 

 

衛瓘はトイレに行く振りをして、密かに鍾会の配下で今は幽閉されている胡烈(これつ)の兵士だった人物に会うと、成都城の外に待機している兵に鍾会が謀反を企んでいると伝えさせます。

 

その後も鍾会はしつこく衛瓘に仲間に入るように強制しますが、衛瓘は拒否。この調子では殺されると恐れた衛瓘は、おちおち眠る事も出来ず膝の上に刀を横たえて、ぶるぶる震えていたそうです。

 

 

朝まで三国志2017 観客 モブ

 

 

成都の城外では、すでに鍾会謀反の知らせが全ての兵士に届いていましたが、肝心の衛瓘が出てこないので魏兵も行動を起こす事を躊躇(ちゅうちょ)していました。

 

 

 

進軍する兵士a(モブ用)

 

 

鍾会は城外の魏兵が騒然としている事を知ると衛瓘を派遣して軍を慰労させようと考えます。早く城から出たい衛瓘でしたが、敢えて鍾会の意志を固くしようと「鍾会が自ら慰労すべきだ」と反対しますが、鍾会は衛瓘の後に出発するので先に向かえと命じます。

 

衛瓘は感情を表さず、徒歩で悠然と成都宮殿を離れますが、鍾会は「よく考えたら、あいつを城外に出したら魏兵を扇動するんじゃね?」と今頃気づき、すぐに追手を派遣して衛瓘を拘束しました。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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