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必殺!仮病攻撃
捕らえられた衛瓘は、ここは仮病攻撃だと決意。いきなり「ううっ、気分が悪い、めまいだ、吐き気もする」と叫んで地面に倒れ込みました。これを見た追手は、気味が悪くなったのか衛瓘を放置して引き下がります。
え?なんでって?そんなの知りませんよ、そう史書に書いてあるのです。こうして、最初の追手を迫真の演技力でやり過ごした衛瓘ですが、城門を出た所で今度は数十人の追手がやってきました。
衛瓘はすぐに官舎に入ると、食塩を加えた白湯を飲んでから、オーボロモロモロモロモロモローーーと盛大に吐いてみせます。どう見ても茶番なんですが、衛瓘は元々病弱で、ここ数日は殺されるのを恐れて、ろくろく寝ていないので追手には衛瓘が重病に罹ったように見えたそうです。
鍾会は医者を派遣し衛瓘が本当に重病か診察させますが、この医者はポンコツだったのか、「衛瓘はもはや長くない」と適当な診断を下しました。こうして鍾会は、もうじき死ぬヤツに何もできまいと安心し、衛瓘を成都城から出したのです。衛瓘の仮病攻撃は大成功を収めました。
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鍾会の乱鎮圧と鄧艾の殺害
日が暮れて門が閉ざされると衛瓘は檄文を作成して兵士に鍾会討伐を命じます。すでに魏兵は準備を整えていて、翌朝を迎えると共同で鍾会を攻撃しました。
鍾会は側近を率いて抵抗しますが、魏兵はこれを撃破し、宮殿を守るのは直属の部下、数百人を残すのみとなります。その為、鍾会は逃亡を図りますが、魏兵はこれを捕らえてことごとく殺戮、鍾会の乱は呆気なく鎮圧されました。
鍾会が殺害されると鄧艾の兵は鄧艾の護送車を追いかけて救い出し、反転して成都に向かってきました。衛瓘はかつて鍾会と共同で鄧艾を罪に落とした事から、鄧艾と鄧忠に復讐される事を恐れ、同時に鄧艾が戻ると鍾会の乱鎮圧の手柄が台無しになると考え鄧艾親子を亡き者にしようと計画します。
こうして、衛瓘はかつて鄧艾に進軍を躊躇した事で殺害されかけた恨みがある護軍の田続をそそのかして兵を与え綿竹に派遣し、鄧艾と鄧忠親子を首尾よく殺害しました。
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鍾会の乱後の衛瓘
鍾会の乱が一段落すると、朝廷は衛瓘の功績を称えて恩賞を与えようとしますが、衛瓘は蜀征伐については全員の功績で、その後の混乱については、鄧艾、鍾会が自ら滅亡へ進んだだけであり、自分で主導して鎮圧したのではないと、恩賞は固辞して受けなかったそうです。
衛瓘は、この功績で使持節・都督関中諸軍事・鎮西将軍に任じられ、昇進して都督徐州諸軍事・鎮東将軍に移動し菑陽侯に封じられます。さらに余爵として弟の衛寔が開陽亭侯に封じられ、栄誉は一族にも波及、後、衛瓘は徐州に着任し行政官として大いに治績を上げ活躍しました。
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衛瓘のまとめ
衛瓘はその後、司馬炎お気に入りの寵臣となり、位人臣を極めます。しかし、因果は巡るもので、
司馬炎の後継者問題で皇太子の司馬衷を暗愚であるから後継者に相応しくないと意思表示してしまい、司馬衷の妃である賈南風に恨まれる事になります。
司馬衷が即位した後も衛瓘は表面上重んじられますが、暴君である楚王司馬瑋を司馬亮と厳しく諫めて、その権力を制限した事で恨まれ、賈南風と結託した司馬瑋により”衛瓘は伊尹・霍光を模倣して皇帝廃立を企んでいる”と詔を出され、全ての役職を解かれ逮捕された後に処刑されました。
晋の重臣、杜預は鄧艾を尊敬していたので、衛瓘が鄧艾を殺した事を激しく非難し、君子の皮を被って名士顔をしているだけの小人で正義に即した行いも出来ない。この報いで、将来必ず殺されるに違いないと言い、それを恐れた衛瓘は車の仕度も整わない間に駆けだして杜預に陳謝したそうです。衛瓘は無能ではありませんが、保身の為に鄧艾を殺すなど身勝手な行動が散見されます。
杜預の評価は、ある程度的確で、その死も過去に自身が鄧艾を陥れた報いを受けたと言えなくもないですね。
参考:正史三国志 晋書
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