華雄とはどんな人?正史で同情!演義では一転豪傑になった男

2021年4月30日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

華雄(かゆう)

 

世の中には運の悪い可哀想な人というのが一定数存在します。それは三国志の世界にもいて、正史三国志の華雄(かゆう)などはその典型人物でした。

 

呉の孫堅

 

華雄は上司の胡軫(こしん)が嫌われ者だったせいで、とばっちりを受け陽人(ようじん)の戦いで孫堅(そんけん)に捕らえられ、縛り首にされる可哀想な末路を辿(たど)ります。

 

kawausoさん

 

しかし、可哀想すぎる最後故に創作である三国志演義では大活躍す武将としてリメイクされ高い知名度を得る事になりました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



華雄なの?葉雄なの?

正史三国志_書類

華雄は、正史三国志の孫堅伝にしか登場せず、それも陽人(ようじん)の戦いに敗れ孫堅にさらし首にされるという記述だけです。

 

正史三国志・呉書を作り上げる韋昭(いしょう)

 

さらに華雄は名前にも異説があり、盧弼(ろひつ)の「三国志集解(しっかい)」で注にあげられる潘眉(はんび)の説では、華雄ではなく葉雄(しょうゆう)であり、その地位も都督(ととく)ではなく都尉(とい)であったとされています。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)

 

しかし、三国志の時代には葉の姓を持つ人物は他に見当たらない事から、葉雄は誤植で華雄が正しいのだとか……一方で都督の地位については、陽人の戦いでは大督護(だいとくご)胡軫(こしん)の配下とされている事から高すぎるとして副官である都尉が正しいと考えられています。

 

表情 kawausoさん02

 

このように華雄は名前の時点で異同が登場する程、地味な人物でした。

 

関連記事:孫権が周泰に頭巾を与えた事を深読みする

関連記事:祖茂とはどんな人?元祖ワンポイントリリーフの功績は?【年表付】

 

嫌われ者胡軫の部下に

呂布

 

正史華雄の不幸の99%は、大督護の胡軫の配下になった事でした。この胡軫、董卓(とうたく)政権下で東郡太守になっているなど家柄はそこそこいい人物ですが、高い武勇を鼻にかける粗暴な性格で、同僚にも部下にも漏れなく嫌われていました。

 

憤死する麋竺(モブ)

 

どの程度、嫌われていたかというと、後に胡軫は冤罪(えんざい)游殷(ゆういん)という人を殺害しますが、それから1ヶ月もしないうちに病に倒れ、後悔の言葉を口走り病死します。胡軫の死を知った人々は游殷の祟りを受けたのだと喜んで游殷を褒め称えました。

 

牛輔と董卓

 

こんな話を聞けば、誰だって胡軫の配下は遠慮したいところですが、董卓は快進撃を続ける孫堅を止める為に胡軫と呂布(りょふ)に兵を率いさせ陽人での迎撃を命じました。こうして華雄は胡軫の部下として従軍する羽目になるのです。

 

関連記事:華雄の最期とは?董卓軍の猛将はフェードアウトがあっさりすぎる?

関連記事:華雄って強い将軍?それとも雑魚将軍?華雄の強さを考察

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの

 

呂布の計略で孫堅に捕まる華雄

華雄と呂布

 

この戦いは最初から不穏でした。自分の武勇に絶対の自信があるらしい胡軫は当初から

 

「この戦いは孫堅1人を討てば終わる。者ども急いで進撃じゃあ!」

 

と、強行軍をして、陽人から数十里の広成(こうじょう)まで到着しますが、兵士は疲労困憊(ひろうこんぱい)、陽も落ちたのでやむなく野営する事になります。

 

兵士 朝まで三国志

 

ここまででも、人使いの荒い胡軫に随分走らされた華雄ですが、本当のトラブルはここからでした。

 

呂布

 

胡軫と共に進撃してきた呂布も胡軫が大嫌いであり、このまま胡軫が孫堅と戦い、手柄を立てると面白くない事になると嫌がっていたのです。そこで、呂布が考えたのは虚報で胡軫の軍勢を右往左往(うおうさおう)させて疲労させ、孫堅に破らせるというえげつない策でした。

 

関連記事:新解釈・三國志のバカな呂布は史実でも頭が弱いの?

関連記事:【新解釈・三國志】なぜ呂布は嫌われモノ董卓の部下なの?

 

虚報に振り回され疲れ果てる華雄

孔明のテントがある野外のシーン

 

呂布は部下を使い、静まった陣営内で孫堅が退却したとデマを流しました。胡軫はこれを聴いて大喜び、退却する孫堅軍を追撃すれば労せずして大勝利を得られるからです。こうして疲れ果てた華雄を含め兵士は叩き起こされ、陽人までの数十里(5キロ〜50キロ)を走らされます。

 

しかし、陽人に辿り着くと孫堅は逃げるどころか備えを堅くしていました。当たり前ですね、呂布のデマなのですから

 

病気になった兵士

 

すっかり騙された胡軫はヘロヘロになり重い鎧を脱いでひっくり返り、再びキャンプを敷いて野営を開始します。呂布は胡軫が寝静まった所を狙い、再び部下を使って、孫堅が夜襲を掛けて来たとデマを流しました。

 

胡軫は飛び起きて、転がるようにして退却していきます。もちろん、疲れ果て泥のように寝ていた部下の華雄も兵士たちも同様に、どこがどこだか分からない状態でひたすらに敗走しました。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

しばらくして、胡軫は、どこにも追手が来ていない事にようやく気づきます。この頃までに、胡軫の軍勢は完全に疲れ果て作戦どころではなくなりました。

 

関連記事:華雄は呂布のせいで殺された?呂布に翻弄された猛将の真実

関連記事:【悲報】韓当の手柄は孫堅に奪われていた!その理由は?

 

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-はじめての漢
-