呂壱事件
そんな中で、呂壱事件が起こります。この各方面に傷を残した事件、最終的には幸いと言うべきか、呂壱は捕らえられます。この際に呂壱の取り調べをしたのが顧雍でした。
顧雍自身、呂壱による言われなき讒言で孫権に叱責されたにも関わらず、顧雍はあくまで穏やかに取り調べを行い、申し開きもさせました。呂壱は何も言えなくなり、周囲の者が彼を責めると、顧雍はそれをやんわりと咎め、あくまで私情を挟まず、落ち着いて法に照らしたのです。
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陸遜に引き継がれた
呂壱事件から数年経ち、243年。76歳で顧雍はこの世を去ります。亡くなる前まで丞相であり、その責務は陸遜に引き継がれました。亡くなる前、孫権から医師が派遣されました。
医師が帰ると孫権は顧雍の末の子を騎都尉に任命し、それを聞いた顧雍は「あの医師は名医だ。自分の死期が近いから陛下はあのように計らってくれたのだろう」と語り、その生涯を閉じたといいます。
どこまでも穏やかな人物
顧雍のその生涯を見てみると、どこまでも穏やか。そうしてその穏やかさは呉の国においてとても貴重であったと思います。まぁ穏やかだけど言う時ははっきり言うし、間違ってないと思うと頑固になる所もあったようですが……公私もきっちりと分けて他人に接することのできる人物ですね。
こういう人は孫権には貴重であり、頼りになったことでしょう。
孫権自身もカッとなることが多い人物ですので、顧雍や諸葛瑾のような人物が穏やかに諫めてくれるからこそ、呉王としていられたのかもしれませんね。
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三国志ライター センのひとりごと
顧雍と諸葛瑾は、孫権がカッとなっても特に怒ることなく、どこまでも穏やかに接してその怒りを治め、諫めてくれる存在です。
他の諸将はどっちかというと孫権に着火する方ですし、下手すれば孫権が宥める側ですし……虞翻とかは宥めるというよりはバケツで水をひっかけるような対応をしますからね。振り返るほどに貴重な存在、顧雍。
よろしければこの機会にもっともっと知って欲しいと思いますね、ちゃぽん。
参考文献:呉書顧雍伝
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