243年との比較
さて翌年、功臣に新しく荀攸が追加されていますね。これに対しては裴松之先生も「鍾繇を先にして荀攸を後にしたとかイミフ(意訳)」というお言葉を述べています。
荀攸、鍾繇のそれぞれの貢献度数を細かく考えずにおいても、二人ともそれぞれ魏に貢献した人物。ましてや鍾繇と荀攸は親友であったとも言われており、並べて追加してもおかしくありません。これはやはり荀攸の追加漏れ、急に功臣選出をしたからではないでしょうか?
もっと言うなら曹操を良く助けた許チョは追加されていないのに、曹操にやたら嫌われていた朱霊が追加されているのも不思議です。
これら点から考えても、筆者はこの功臣選出はあくまで政治的な計らいであり、実際に功臣かどうかはそれほど意識されていないのではないか……と思うのですが、皆さんはどうお考えですか?
ぜひ、色々と楽しく考察して下さればと思います。
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今日の裴松之先生
さて最後に今日の裴松之先生を。裴松之先生はこの功臣たちの選出に一言述べており、その中でも面白いのが
「程昱を祭って郭嘉を何で残したんだよ」
「典韋が乗ってて許チョおらんとか意味わからんくない?」
などのコメントを載せてくれております(超意訳)。
これらから考えるに、やはり後世の人たちから考えても功臣二十五臣は謎が多く、考察してしまうテーマの一つなんだと思いました。もしかしたら「二十五名に加えるなら」……なんて言うのも、面白いかもしれませんね。
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三国志ライター センのひとりごと
考えれば考えるほど選出理由が良く分からなくなる功臣二十五名。
筆者の考えた答えの一つとしては「選出した人そこまで考えてなかったんだと思うよ」が真っ先に思い浮かびます。それを抜きにして考えると、やはり当時の政治情勢が大きいのかな、とも思います。
皆さんはこの功臣二十五臣、どうお考えですか?
ぜひ一度、考えて下されば一興です。
ご一緒にどうぞ三国志の沼に……ちゃぷり。
参考文献:魏書明帝記 斉王紀
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