関羽と呂布の人気
虎牢関のエピソードを作った理由の2つ目は当時の人気の高さです。神格化され始めていた関羽の人気は語るべくもないでしょうが、演義が普及する以前は呂布も関羽に負けないくらいの人気があったと考えられます。
その根拠となるのが演義よりも前に刊行された三国志平話。こちらでは孫堅を敗走させたのが華雄ではなく呂布になっています。三兄弟との戦闘も記述がありますが、敗走という記載をしていることから演義のような活躍とは言えないでしょう。
ただ、少なくとも平和の前半部分の主人公とも言える張飛と何度も打ち合っている点から、その強さはしっかりと表現されているように感じます。関羽についてはほぼ空気で、活躍シーンはただの1つもありません。
徐州で呂布と劉備が反目する部分に関しても、張飛が呂布配下の侯成を賊と勘違いして金品を奪ったことが発端となるなど、嫌われ要素は少なめです。
演義はそれまで人気のあった呂布を最強の裏切り者というキャラにすることで、前半部分の敵役として存在を強調したとも考えられます。その代償として人気は低迷してしまうわけですが。
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なぜ虎牢関だったのか?
エピソードそのものがフィクションである以上、戦いの舞台はどこでもよかったはずです。それが虎牢関になった理由を考えてみましょう。虎牢関は洛陽の東側にあって、都を守る要所として古くから重視された場所。そのため、戦が行われた回数も多く、その中で様々な武将が名を上げました。
例えば、唐の李世民はわずか3500人の兵で虎牢関へ籠り、十万を超える大軍を有する竇建徳を打ち破っていますし、南宋時代に金軍が攻めてきた際も宗沢らが汜水関で進軍を拒み、岳飛がわずか数百の手勢で金軍を打ち破っています。
また、大きな兵力差などの逆境を覆しているケースも多く、1対3の戦闘をくぐり抜けた呂布はこのパターンに近いのかもしれません。
関羽は岳飛とともに尽忠報国の士として祀られることが多く、董卓軍vs連合軍、金vs南宋いずれも大局では負けつつも局地的に勝利した点が似ていると言えます。
つまり、羅貫中は虎牢関を名将が通る登竜門と考え、呂布と関羽に活躍の場を与えることで以降の展開に必要なキャラ付けを行ったのではないでしょうか。
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三国志ライターTKのひとりごと
三国志演義は物語自体も長く、前半と後半で主要な登場人物がガラリと変わってしまいますが、なぜかダラダラとした印象を与えずテンポよく読める作品です。少なくとも筆者は三国志を読む前は登場人物が多く、関係性が複雑な歴史ものはニガテでしたし、長い話は途中で飽きていました。
そんな筆者がハマった理由として、ストーリー全体を通して敵味方がわかりやすく、起承転結もしっかりしているからではないかと考えます。虎牢関の戦いは物語の「起」にあたり、ここで行ったキャラ付けが「承」や「転」にも生きていることから、物語を中だるみさせないよう後半の展開とのバランスを考えながら虎牢関の戦いは作られたのではないでしょうか。
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