諸葛亮と姜維は魏国に対する北伐を何度も行っていますが、その大半が兵站維持の失敗による撤退となっています。
兵站が維持できなかった原因は、本拠地の益州が山岳地帯であり、物資の運搬が難しかった事と言われていますが、現代ではその難しさが想像できません。
そこで今回は蜀漢の本拠地である益州の主食や運搬方法などから、兵站維持に失敗した背景を考察していきたいと思います。
この記事の目次
益州の主食
蜀中広記や華陽国志によると益州では米を主に栽培していました。成都近郊にある成都平原には都江堰と呼ばれる灌漑施設があり、これによって稲作が盛んに行われていたようです。
もともと成都近郊で普及しはじめた五斗米道も「信者に5斗の米を寄付させた」ためにその名がついたと言われているので、成都近郊では米が一般的に普及していたことがわかります。他にも華陽国志の漢中志には、丘陵地帯を利用した棚田を設けられたことが記載されていますし、これらは現在でも残り続けています。
ただ、現四川省の古墳から出土した漢代の稲穂は、1束あたりの粒数が現代の米と比較しても半分程度しか実っていなかったようなので、地質や気候のせいか生産効率は高くなかったのかもしれません。
益州北部では麦の栽培
周礼の記載によると青州付近では麦の栽培が行われていて、三国時代には長安など関中一帯に広まったとあります。
実際に鄧艾は姜維の北伐に際して、祁山の麦を狙うだろうと予想していますし、諸葛亮も第四次北伐では祁山の麦を収穫しています。
加えて華陽国志でも姜維が黄皓との衝突を避けるために、陰平郡にある沓中という場所で麦を植えたという話が残っているので、益州北部を堺に雍州一帯は麦が大量に栽培されていたようです。
関連記事:悪臣で有名な黄皓は「無能」ではなかった
関連記事:黄皓の最期を振り返る!本当に蜀を滅亡に追い込んだのか?
蜀漢の食糧事情
劉璋が益州を治めていた時代は、長らく戦禍を避けていたこともあり、土地は肥えていたと言います。そのため、成都平原を中心に大きな穀倉地帯となり「天府之国」と呼ばれていました。
法正伝でも「劉備軍は輜重がなく野にある穀物を糧としている」という記載があることから、食料は現地調達が可能な程に豊富だったのでしょう。
また、水経注には諸葛亮が北伐をした際、1200人の官吏を都江堰の防護の任に就かせたとあり、その規模の大きさが伺えます。こうした点を考えると、諸葛亮が存命中は食料不足が兵站維持に失敗した原因ではないようです。
関連記事:任峻(じんしゅん)とはどんな人?屯田制を実行し魏軍の食料庫をパンパンにした男
関連記事:曹操軍の食料担当にはなりたくない!!その理由とは?
■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■
運搬の問題点
戦は兵糧の有無、そして維持が戦局を大きく左右されたと言われています。その兵糧は牛や馬に引かせて前線へと送られますが、輜重部隊の行軍は通常の進軍速度よりも遅いです。
なので、先にある程度の量を前線に送ったとしても、継続して運搬しなければすぐに枯渇してしまいます。そこで活用されるのが牛車や馬車など一度に大量の荷物を運ぶ方法ですが、益州は山と山を結ぶ細い桟道しかありません。
そのため、諸葛亮は木牛と流馬という運搬用の工具を開発します。これらは第四次と第五次の北伐で利用されているので、これで運搬効率は改善したようです。
ただ、第四次北伐では兵糧運搬の責任者となった李厳が、途中で補給を止めてしまう事態があり、失敗に終わっています。
諸葛亮も李厳がいい加減な性格であると知りながら重用していたようなので、人材不足は深刻なレベルだったのでしょう。
また、第五次では木牛流馬を使いつつも屯田を行って、長期戦への備えを見せているので、後方の補給が途絶えることも想定していたのではないでしょうか。
関連記事:諸葛亮、木牛を作って兵站確保するも、虚偽申告発覚で北伐失敗を考察
関連記事:諸葛亮が発明した運送器具「木牛」と「流馬」の目的とは?
【次のページに続きます】