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諸葛亮、「離間の計」にて姜維を降伏させる
姜維の才能に驚いた諸葛亮は策を用いて姜維と馬遵を引き離そうと計画します。それは姜維の母への愛を利用したものでした。姜維の母の住む場所に兵を差し向け、姜維がそこに向かった後で「姜維は降伏した」との情報を流します。姜維が魏延と一騎打ちをして魏延を引かせたあと、馬遵の元に帰還します。
しかし、馬遵は姜維が降伏したと疑い、城に入れません。他の場所でも拒否され途方に暮れる姜維の前に諸葛亮が現れます。そして、なんとそこには母の姿が!2人は感動の再会をし、諸葛亮は姜維に蜀に降伏するよう説得します。
こうして姜維は蜀の武将となったのでした。
その後の姜維
小説「三国志演義」では大活躍した姜維ですが、正史「三国志」ではその後は順風満帆ではありませんでした。諸葛亮の後を継いだのは「蔣琬」そして「費禕」でしたが、その時姜維は大軍を率いて諸葛亮の悲願、北伐をすることはできませんでした。
しかし、彼らの死後、姜維は連年の北伐を決行します。その北伐では思うような成果は得られず、蜀の国力を衰退させていきます。
一方宮廷では宦官が跋扈して内政も混乱。そこに魏軍が襲来し、姜維は剣閣で必死に攻撃を防ぎます。
しかし、魏の鄧艾が前人未到のルートで成都にせまり、蜀は降伏。
姜維も鍾会に降伏します。
後に鍾会をそそのかし、反乱を計画しますが失敗し、姜維は殺されてしまいます。魏から降蜀した姜維でしたが、その経緯からか賛同者が少なく、大望を果たすことはなりませんでした。
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三国志ライターみうらの独り言
軍事を担当する武将が不足していた蜀にとって姜維の降蜀は、戦力強化になったには違いないでしょう。しかし、それゆえに姜維は自分の能力以上の大きな仕事を背負ってしまい、苦労したのでしょう。ただ、魏にいても姜維は出世できなかったかもしれず、蜀に行ったのは正解だったかもしれませんね。
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