後々まで響いた呂壱事件
この手紙を受け取った諸将の反応は実に冷めたものでした。そもそもとして呂壱事件は孫権が重臣たちの意見を聞かなかったから大事になったというのに、その後でこんな手紙を貰っても逆効果でしょう。
流石に焦った孫権が再び反省文を書いて送ると、やっぱりというか何というか、見かねて諸葛瑾が今回の反省に対する案をいくつかまとめて提出、やっと呂壱事件はここに終焉することとなりました。
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二宮の変
しかし後々、ある事件が更に起こります。そう、二宮の変ですね。
この際に孫和に付いた人物:陸遜、諸葛恪(諸葛瑾の子)、顧譚(顧雍の子)孫覇に付いた人物:歩シツ、呂岱
他にも人物はいますが、呂壱事件で協力した諸将が、対立関係になっているのです。決して全てが呂壱事件と関係しているとは言いませんが、この事件以降、もしかして呉の武将たちにも溝ができていたのではないか……と思います。
そう思うと呂壱事件はただの一事件ではなく、呉の歴史に置いてターニングポイントとなった事件だったのだなぁ……なんて、思わずにはいられない筆者でした。
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三国志ライター センのひとりごと
今回は、二宮の変と同じく、あまり触れられない呂壱事件について改めてまとめてみました。呂壱事件からある意味、呉は真っ逆さま、転げるように悪化の一途を辿るのが寂しい所。しかしこの事件無くして呉は語れない、そんな出来事でもあります。
苦い出来事もまた三国志の醍醐味、本日も三国志の沼からお届けしました……ちゃぷん。
参考文献:呉書呉主伝 潘シュン伝 陸遜伝 顧雍伝 歩シツ伝
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