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呂興の乱で蜀と呉が軍事衝突、その結末はどちらが勝利したのか?

2021年9月11日


 

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司馬昭の質問に回答する劉禅

 

西暦263年蜀は、鄧艾(とうがい)によって滅亡し劉禅(りゅうぜん)と重臣たちは洛陽に召喚されました。しかし、蜀の旧臣はそのまま同地に残され、今度は晋の武将として未だに独立を継続している呉と干戈を交える事になります。

 

三国志のモブ 反乱

 

そして、元は同盟関係だった蜀と呉が本格的に衝突したのが呂興(りょこう)の乱でした。はたして最終的に勝利したのは呉?それとも蜀の旧臣だったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呂興の乱

洛陽城

 

呂興(りょこう)の乱を起こした呂興は交阯(こうし)太守孫諝(そんしょ)のもとで郡吏(ぐんり)を務めていました。呉の永安5年(西暦262年)呉帝孫休(そんきゅう)鄧荀(とうじゅん)を交阯に派遣し、孔雀と大猪を調達するように命じ、鄧荀は太守に孔雀3千羽を秣陵に送るように命じます。

 

しかし、この孫諝は貪欲で暴虐な性格で、これまでも現地民に無理難題を押し付けていて、現地では不満が暴発寸前になっていました。

 

最後まで戦い抜く張悌(ちょうてい)兵士モブ

 

翌年5月、呂興は、このチャンスに乗じて兵士や民衆を扇動し、異民族も誘い込んで反乱を起こし孫諝・鄧荀を殺害します。この呂興の乱は、隣の九真郡(きゅうしんぐん)日南郡(にちなんぐん)にまで拡大しました。孫休の政治は、言うほど辺境の民衆には優しくなかった模様です。

 

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呂興は霍弋に降るが部下に殺害される

 

その頃、呉は魏の蜀漢侵攻の対応に追われ、呂興の反乱に兵を差し向ける事が出来ず、呂興はその隙を突いて都尉の唐譜(とうふ)を魏の南中郡に派遣。南中都督の霍弋(かくよく)に魏への服属を申し出ます。霍弋は元々、蜀の将軍であり今は魏に降っていたのです。

 

霍弋は応じて洛陽にその旨を上表し、魏の咸熙(かんき)元年(264年)9月辛、魏は呂興を南中大将軍・定安県侯に封じます。しかし、詔勅(しょうちょく)が到着しないうちに呂興は功曹の李統(りとう)に殺されました。

 

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交州を平定する旧蜀臣

進軍する兵士b(モブ用)

 

霍弋は反乱を支援するために、牙門将楊稷(ようしょく)馬融(ばゆう)毛炅(もうけい)董元(とうげん)を交州に出撃させます。

 

牙門将軍楊稷は、霍弋の計略に従い、毛炅、董元、孟幹、王素等と共に水陸二路から進軍して交州を平定。呉の派遣した大都督修則(しゅうそく)・交州刺史劉俊(りゅうしゅん)を三度破り古城において斬首しました。

 

逃亡する兵士 三国志ver

 

その後も、楊稷等は数度にわたり交州諸郡に攻め込み完全平定に成功します。指揮官になった楊稷は毛炅を鬱林太守、董元を九真太守、董元の死後は王素を九真太守にするよう魏に上奏しました。

 

敗北した呉は、リベンジとして虞汜(ぐし)を監軍、薛珝(せつく)を威南将軍大都督、陶璜(とうこう)蒼梧(そうご)太守に任じて、楊稷に立ち向かわせ、分水で戦闘となりますが、楊稷は陶璜を破り配下の将軍二人を討ちました。

 

やがて副官の馬融(ばゆう)が亡くなると楊稷は、交阯太守となり綏遠将軍を加えられています。半ば、晋と呉の代理戦争ですが蜀滅亡後の遺臣は高い戦闘力を示し新しい主司馬炎に報いたのです。

 

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陶璜の遠征軍10万に勝てず籠城

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

271年春、南中督の霍弋が亡くなります。すると孫晧(そんこう)は大都督薛珝・交州刺史陶璜率いる10万の大軍を交阯に派遣しました。呉はすでに混乱から抜け出していて大軍を出す事が可能だったのでしょう。楊稷は毛炅と孟岳らに防衛させますが、封渓において戦闘になり多勢に無勢で敗北します。

 

楊稷らはわずかな兵とともに交阯に戻り城を固めました。かつて霍弋は楊稷等に

「賊軍に包囲されて百日未満で降伏した者は家族を処刑する。

百日以上して援軍が到着しなかったならば私が罪を引き受けよう」と語っていました。

 

これは魏の降伏ルールであり、霍弋もそれを受け入れていたのでしょう。

三国志 剣閣のお城

 

しかし、交州城内は百日経たずして兵糧が底をつき楊稷は降伏を申し出ます。ところが陶璜は降伏を許さず兵糧を与えてまで城を守らせました。

 

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百日ルールを尊重した陶璜

 

諸将がこれを不審に思うと陶璜は

「霍弋はすでに死んでいて楊稷らを救援できない。だからまず期日を満たし、それから降伏を受け入れれば彼らは罪にならず義を立てられる。こうすれば内向きには百姓への教育になり、外向きには隣国を懐柔することになる」と語りました。

 

こうして百日が経過して食糧が底を突き、援軍も到着しなかったので楊稷等は陶璜に改めて降伏しました。万が一の場合に備えて百日ルールを守らせておくとは、陶璜もなかなかの名将です。

 

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楊稷の最期

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

建業に護送される途中、楊稷は合浦(ごうほ)で発病して血を吐いて死去しました。その為、首だけが建業に送られ体は海へ捨てられたそうです。司馬炎は楊稷を交州刺史に任命していたが籠城中のため印綬を届けられず楊稷の死を知ると交州刺史を追贈しました。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

蜀の滅亡というと劉禅の呆気(あっけ)ない降伏や、姜維の到らなさが頭に浮かびますが、蜀には、霍弋や楊稷のような名将が残っていて、蜀の滅亡後は曹、晋の武将として対呉戦線で活躍していました。

 

蜀の人材は小粒な印象ですが、上の命令をよく守り、最大限努力するので司馬炎も高く評価し、蜀の遺臣も積極的に登用するようになったのではないか?と個人的に思いました。

 

参考文献:正史三国志

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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