王平と言えば、「楊儀」と対立し、軍事行動を起こしてしまった「魏延」に対し「なぜこんなことをするのか!」と一喝したことで有名な武将ですね。
そんな王平は様々な戦い、そして負け戦でも名を残した優秀な武将でした。今回の記事ではそんな王平について探ってみましょう。
この記事の目次
異民族出身?
王平は巴西郡宕渠県(現在の四川省達州市周辺)出身です。当初は異民族の豪族である杜濩、朴胡に付き従っていましたが、彼らが曹操に帰順した際に王平もその配下となっています。元々異民族に従っていたことから、王平も異民族の出身の可能性がありますね。
その後、劉備に従う事になるのですが、正史「三国志」には「曹操に従って漢中に赴き、劉備に降伏した。」となっており、詳しいいきさつはわかりません。
馬謖を度々諌めるも・・・
王平が有名になったのは「街亭の戦い」でした。228年の諸葛亮の北伐の際、魏は張郃を派遣し、諸葛亮に対抗しました。
蜀の先方には諸葛亮に期待されていた「馬謖」が抜擢され、王平はそのお目付け役として戦場に赴きます。馬謖は戦場での経験が少なかったため、軍令は混乱し、水源を捨てて山頂に布陣をしてしまいました。
王平は「水源を断たれたら終わりですぞ!」と何度も諌めますが、気負った馬謖はこれを受け入れません。結果的に蜀軍は大敗してしまいますが、王平は殿として1000人の部下を率いて無事に退却することに成功します。
この大敗により馬謖は泣いて斬られましたが、王平は逆に賞賛されています。
関連記事:馬謖とはどんな人?十万の蜀兵が泣いた街亭の敗戦の顛末【年表付】
関連記事:街亭の戦い時の撤退戦の評価ポイントとは?趙雲と王平の功績
魏延を一喝!
234年、諸葛亮が無念の死を迎えると「全軍撤退せよ」との遺言を受けた「楊儀」はそれを実行に移します。
しかし、かねてから楊儀と折り合いが悪かった「魏延」は「私が指揮をする、楊儀に従って撤退などできるか!」と従わず、逆に楊儀を攻撃するために軍を進めたのです。
この魏延の行動は謀反とされ、魏延を追悼するために王平は派遣されます。
ここで王平は「公(諸葛亮)が亡くなり、まだその身も冷たくならないうちにお前達はどうしてこのようなことをするのか!」と魏延軍を一喝。すると自分たちに非があると察した魏延軍の兵士は逃亡してしまい、王平は難なく魏延を討ち取ることが出来たのでした。
関連記事:馬謖の息子はどうなった?街亭の戦いの失敗による処罰で影響はあった?
諸葛亮亡きあとの蜀の軍事面を支える
諸葛亮が亡くなってから10年後、魏の実力者「曹爽」は己の権力を示すため、10数万の大軍で蜀に攻め込みます。蜀の防衛の要「漢中」の守備兵はわずか3万。諸将は動揺しましたが、王平は冷静に援軍を要請し、自分は援軍が届くまで奮闘し曹爽を撃退することに成功したのです。
曹爽は戦果なく引き上げることになり、この戦いであっという間に名声を落としてしまい、結果的に司馬懿父子のクーデターにより死ぬことになります。その後も人材が少なくなっていく蜀を軍事面で支え、248年に亡くなりました。
関連記事:司馬昭の父である司馬懿の政敵 曹爽たちはどんな政策だったの?
関連記事:太傅・司馬懿と曹爽の権力抗争「正始の政変」とは具体的にどんな争いだったの?
関連記事:もしも、曹爽が司馬懿に勝っていたら三国志はどうなった?
王平は文字は読めぬ学はある?
王平は実はろくに学問をしたことが無く、文字も詠めませんでした。文章を作成するときは全て口述に頼っていましたが、その内容は筋が通っていたといいます。また、「史記」「漢書」などは読めず、人に読んでもらっていたのですが、内容についての議論にも加わり、それは全て的を得ていたとも言います。彼は普段は冗談などは口にせず、法律も厳守していたといいますが、学問が無いという劣等感からか、性格は偏狭で疑い深い人物だったらしいです。
関連記事:王平さ~ん! 10文字以上は書けないってホントなの?
関連記事:【王平の戦いが凄い】文字は10個しか知らないけれど軍事において抜群の才能を示した戦い
【次のページに続きます】