劉備が支配した蜀、当時の行政区分で「益州」は「天然の要害」と言われていました。これは「自然が険しく攻めにくい」ということです。なかでも「蜀の桟道」と言われる道はその天然の要害を象徴する場所でした。
今回の記事では「三国志」において「蜀の桟道」がどのような役割を果たしたか、探っていきます。
この記事の目次
「蜀の桟道」とは?
「蜀の桟道」とは関中から蜀へ抜ける道の事をいいます。その道は険しい崖に穴をあけ、杭を打ち、その上に板や石などを置いて道とした、とんでもなく危険な道でした。蜀の桟道がある一帯は高い山々が連なり、通行するのがとても難しい場所でしたが、長安と成都を結ぶとても重要な道でもありました。
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蜀の桟道の成り立ち
蜀の桟道は戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221年)の秦の恵文王(在位紀元前338年〜311年)のころに作られたと言われています。恵文王は蜀の地を征服しようとしていました。しかし、蜀は天然の要害に囲まれ、行き来するのも難しいほどでした。
そこで恵文王は一計を案じます。最初は蜀の王と友好関係を築き、蜀に「黄金の牛」と言われる像を贈る事にしたのです。しかし、これを運び、山を越えるのはとても困難です。そこで蜀の王は黄金の牛を運ぶために「蜀の桟道」を整備した、と言われています。
その道を使い、秦は蜀に進撃し、結局は蜀を征服します。蜀の桟道は秦の恵文王が蜀の王を騙して作らせた道と言えるかもしれませんね。この故事にならい、この桟道の一つのルートは「金牛道」とも言われます。
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劉備の益州攻略戦
そして三国志の時代です。劉備は諸葛亮のアドバイスに従い、当時劉璋が支配していた益州を得たいと思っていました。
そんな時、「暗愚な劉璋では曹操に対抗できない」と考えた劉璋の家臣らが劉備を益州に引き入れることを計画します。名目は「張魯討伐に協力してもらう」ということで、あくまで援軍としてでしたが、いずれ劉璋を追い出し、益州を劉備に譲る計画でした。
劉璋は初めは劉備を受け入れようとしましたが、家臣の劉璋の廃立計画が露呈。劉璋と劉備は戦争状態に突入します。この時劉備は「葭萌関」というところに駐屯します。その近くには蜀の桟道で最も有名な「明月峡蜀古桟道」があります。ここから劉備らは成都にむけて進撃していくことになります。
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諸葛亮、桟道を整備する
のちに劉備が亡くなり、諸葛亮が蜀の中心となります。そして諸葛亮は魏を打倒するために「北伐」を計画します。その中で前述の「明月峡蜀古桟道」が整備され、北伐に使用することになります。
また、諸葛亮は魏との国境に近い「大剣山」と「小剣山」の間に関を作ります。
これが「剣門関」(剣閣)です。この関は蜀の守りの要として重要な場所となります。加えて関の谷の下に30里にもわたる桟道を作り、北伐などで使用されました。
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