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魏延に焼かれる桟道
わざわざ桟道を作るという事は「他に道がない」という事で、桟道を焼いてしまえば外に出ることはできませんが、攻められることもありません。
秦の時代の終わり、ライバル項羽に蜀地方に左遷された劉邦は軍師張良のアドバイスに従い、桟道を焼きました。これは「攻め込む意図はない」と示していました。
そして三国志の時代。諸葛亮亡きあと、蜀では「魏延」と「楊儀」の争いが激しくなっていました。
魏延は諸葛亮が病死した後も北伐の継続を主張しましたが、楊儀らは諸葛亮に「自分が死んだら撤退するように」という遺言を受けていました。また、「魏延が逆らっても構わず撤退せよ」とも言い残していました。
魏延は楊儀の指揮下に入り撤退することを拒否し、楊儀が撤退できないよう、桟道を焼いてしまいます。楊儀も対抗して桟道を作るなど、桟道周辺で激しい主導権争いが繰り広げられました。
結局は魏延が敗れ、殺されてしまいます。
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その後の桟道
何度も戦乱の舞台となった桟道ですが、そのたびに再建され、重要な道路として存在し続けました。しかし、1937年に近代的な道路が開通すると、桟道は役割を終え、破壊されたり、朽ちていきました。現在ではその歴史的価値が見直され、観光用として整備されたり、文化財として保存されたりしています。
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三国志ライターみうらの独り言
桟道を見てみるとかなり狭く、歩くだけでも命がけという事が良くわかります。桟道は見ている分は面白いですが、現在の道には感謝したいものですね。
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