夏侯惇と言えば、戦で左目を失い「隻眼」の武将として知られていますね。創作物などでは眼帯を付けた格好の良い姿で描かれることも多いそうです。
曹操の下で活躍した夏侯惇ですが、その最後は正史「三国志」と小説「三国志演義」で違いすぎるのです。今回の記事ではそんな夏侯惇の最後についてみてみましょう。先ずは夏侯惇の生涯を正史「三国志」から探ります。
この記事の目次
曹操の親戚で、挙兵から従う夏侯惇
夏侯惇は曹操の「いとこ」(それぞれの父が兄弟)と言われています。若いころは勉学に励んでいましたが、自分の師を侮辱したものを殺してしまうほどの気性の荒さでも知られていました。
曹操には挙兵から従い、多くの戦に従軍しています。呂布との戦いでは流れ矢が目に当たり、左目を失ってしまいます。
その為、同族の「夏侯淵」と区別するため「盲夏候」と呼ばれたりもしましたが、夏侯惇は隻眼をとても嫌っており、鏡を見るたびに叩き割っていたそうです。
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内政でも実績を上げる夏侯惇
呂布や劉備との戦でも業績を上げていて武勇で知られた夏侯惇でしたが、実は内政でも実績を上げていました。
夏侯惇はある地域の「太守」(県知事に相当)を任されていましたが、その土地は「蝗害」(イナゴに稲などを食われる)に悩まされ、農業に使う水も不足している状態でした。
そこで夏侯惇は堰を整備することを計画し、自ら土を担ぐなど先頭に立って工事を行ったそうです。また、将兵を派遣し稲作を指導するなど民の為の政策にも長じていました。
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夏侯惇の性格は?
勇猛で粗暴なイメージの夏侯惇ですが、実は人望もありました。功績を上げた「田疇」に曹操は恩賞を与えようとしていました。
しかし田疇は「世の中が混乱しているのに自分だけ恩賞を受けるわけにはいかない。」とこれを拒否。困った曹操ですが、夏侯惇が実は田疇と仲が良いと聞き、彼を説得に向かわせます。結局田疇は恩賞を受けることは無かったのですが、気難しい人物とも仲良くしていた夏侯惇の人柄がよくわかるエピソードです。また、夏侯惇は蓄財することはせず、余った金は人々に分け与えるなど清廉な人柄であったそうです。
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夏侯惇の最後とその墓は?
曹操は夏侯惇に絶大な信頼を置いており、寝室に入ることを許したり、車に同乗させる等、大いに優遇していました。しかし、曹操は220年の正月に亡くなってしまいます。
夏侯惇の無念はいかほどだったでしょうか。曹操の後を継いだ曹丕も夏侯惇に期待し、軍事の最高位である「大将軍」に任命します。ただ、そんな夏侯惇も曹操が死んだ数か月後に曹操の後を追うように亡くなってしまいます。死因は病死だったようです。
夏侯惇の墓は「河南省許昌県」にありましたが、工事のために取り壊されてしまいました。発掘調査もされましたが、一振りの剣しか見つからなかったそうです。また、「河南省安陽市安陽県」には「曹操の墓」と言われる場所がありますが、そこが夏侯惇の墓という説もあります。
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小説「三国志演義」での夏侯惇は?
小説「三国志演義」では夏侯惇の勇猛さが強調され、趙雲や関羽などと一騎打ちを繰り広げるなど、蜀の「強敵」といったポジションです。左目を失う場面で「この目は父の精、母の血、捨てるわけにはいかぬ!」と目を食べてしまうなど、豪快なエピソードもあります。
ただ、敵役という事からか、諸葛亮に策にかけられ、大敗してしまうなど情けない場面もあります。
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