「夏侯惇」と言えば曹操の初期からの勇将で、数々の戦で戦功をあげたことで知られますね。また、呂布との戦いで左目を失い、創作物などでは眼帯姿としてもおなじみです。
今回の記事ではそんな夏侯惇の親戚、一族について紹介していきます。いずれも「魏」で重きをなした者ばかりです。最初はその夏侯惇本人から紹介しましょう。
この記事の目次
曹操に尽くした夏侯惇
夏侯惇は若いころ、学問の師を侮辱した人物を殺してしまうほどの気性の激しさで知られていました。曹操が初めて挙兵した時からこれに従い、その勇猛さで多くの戦で功績を上げます。
呂布との戦いでは左目を失い、後に紹介する同族の「夏侯淵」と区別するため、「盲夏候」と言われていましたが、本人はこれを嫌がり、鏡を見るたびに叩き割っていたそうです。戦いだけでなく、灌漑工事を行うなど、内政面でも功績を上げています。
曹操が亡くなると、後継ぎの「曹丕」により軍事の最高位「大将軍」に任命されますが、その直後に死去。その死は曹操の数か月後でした。
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そもそも曹操も夏侯惇の一族だった!
夏侯惇が仕えた曹操ですが、実は夏侯惇と同族です。曹操の父「曹崇」は宦官「曹騰」の養子になったのですが、曹崇は夏候家の出身で、夏侯惇の父の弟です。と、いう事は夏侯惇と曹操は「いとこ」という事になりますね。曹操の実家は「夏候家」ですので、曹操と夏侯惇は幼いころからの知り合いだったのでしょう。
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夏侯淵はちょっと遠い親戚?
夏侯淵と夏侯惇は並んで語られることが多く、兄弟のようなイメージの夏侯淵。正史「正史」三国志には「夏侯淵は夏侯惇の“族弟”である」と書かれています。
「族弟」とは「年下の同族」を意味するとされ、本当の二人の関係は良くわかりません。一説には2人の関係は「いとこ」で、夏侯惇の父と夏侯淵の父が兄弟にあたるそうです。
夏侯淵は夏侯惇と同じく武勇に優れ、特に迅速な行軍と奇襲攻撃を得意としていました。のちに要衝の地「漢中」の守備を任されますが、隙を突かれて劉備軍に敗れ戦死してしまいました。
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業績不明な弟「夏侯廉」
夏侯惇には「夏侯廉」という弟がいました。殆ど正史に記録はなく、どんな業績を残したかはわかっていませんが、夏侯惇の生前に「列侯」(領地と爵位を授かる)に任命されたそうです。
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夏侯惇の長男「夏侯充」
夏侯惇が死んだあと、その爵位を継いだのは長男の「夏侯充」という人物です。大きな功績を上げた父を持ちながら、ほとんど記録が残っていないため、おそらく何かを成し遂げた人物ではなかったのでしょう。
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