関平は関羽の息子というのが多くの人の認識ですが、正史においては関羽の実子。三国志演義では関定の実子で、そこから関羽の養子となっているなど色々と複雑な人物です。
また、関羽の実子として他にも関興がいますが、正史でもどちらが長男かは言及されていませんし、演義では関寧という兄がいる設定となっています。色々と複雑な関平の兄弟事情ですが、今回はそこを深く掘り下げていきたいと思います。
三国志演義に登場する関寧
冒頭でも触れたように演義における関平は、関羽ではなく関定という人物の息子です。そこから関羽の養子となったわけですが、関定にはもう1人関寧という息子がいました。関寧の方が兄で学問を学び、弟の関平は武芸を学んだとされています。
関寧に関しての記述はそれだけで、単純に関平との比較として登場しただけで、どちらかといえば文官系のキャラだったという以外の情報はわかりません。ただ、学問という部分に関して儒学を学んだとする解釈もあるようです。関平は親孝行な息子として描かれていますが、そうした兄の影響もあるということなのかもしれません。
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関平と関興どちらが長男?
正史にも演義にも登場する関興ですが、正史では関平とどちらが長男かは触れられていません。演義では関平の方が先に養子になっていますが、実子は関興が初となるので、関興を長男として扱うケースもあるようです。
ただ、正史をベースにして考えると関興は夷陵の戦いのあと(223年頃に)に20歳ほどで侍中、中監軍という役職に抜擢されたという記述があり、「関侯祖墓碑記」によれば関平は178年5月13日に生まれたとされています。
そう考えると、関興は200年前後に生まれたと考えられるので、長男は関平です。とはいえ、「関侯祖墓碑記」は清代に発見された碑文の内容を記したもので信憑性が高いとは言えません。
もう一つ、関平は樊城の戦いが初陣だったために正史に記載が少ないという説があります。それをもとに考えると、当時は10代後半には戦場に出ていたようなので、若くて15歳というところでしょうか。
それであれば204年頃の生まれとなるので、関興が長男という可能性も出てきます。ただ、それであればなぜ関興は戦場に行かなかったのかが疑問ですし、初陣で死んだことや関平がまだ幼かったなどの記載が正史にあってもよさそうなものです。なので、総合的に見て関平の方が年上だった可能性が高いです。
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架空の三男、関索
正史における関平の兄弟は関興だけですが、他にも架空の登場人物として関索という人物がいます。関索は元代頃に編纂されたとされる「花関索伝」と呼ばれる系統の読み物を中心に人気となった人物です。
花関索伝にはいくつかの種類があり、演義も同様に版本がいくつもあります。関索は版本によって扱われ方が大きく異なる人物です。例えば三国志平話では一度だけ名前が登場しますが、関羽とのつながりについては一切触れられていません。
また、平話は関平が援軍を連れてくるために荊州から離れているので、樊城の戦いでは死なずに南中征伐にも赴いているので、直接的な関わりはないものの関平と関索の幻の共演が果たされています。
演義では荊州の戦いで負傷し、療養期間を経てから南中征伐で初登場するというパターンが比較的有名です。他にも花関索伝と同じように北伐で活躍するシーンが出てくるなど、関興と役割がかぶっているものもあります。
そして、極めつけは関索が次男(関平が養子という点を考えれば長男)という立ち位置になっているケースもあり、架空のキャラだけあってかなり自由な描き方がされています。
ちなみに花関索伝の1つである「新編全相説唱足本花関索貶雲南伝」という書物には関索が陸遜、呂蒙、糜芳、麋竺を斬って関羽の敵討ちを果たすなど、完全に演義の関興と丸かぶりしているものもあります(この話では麋竺も糜芳とともに関羽を裏切っている)。
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三国志ライターTKのひとりごと
架空の人物である関索は除いても、関平や関興は正史以上に活躍の場が与えられていますし、関興は武官キャラになるなど改変もかなり大きく見られます。
しかし、演義はある程度話の大筋が決まっているせいか、関羽の仇討ちや南中征伐に参戦するなど、人が違うだけで大まかな役割はほぼ同じです。結局のところ、物語上で必要だったのは「関羽の息子」という肩書だけで、関平が長男であれ次男であれ、あまり大差ないが無いような気もしてきます。
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