さーて時代は一気に孫権の死後まで進み、斜陽の呉に魏の大軍がやってきます。
そこで色々あって諸葛恪がやり遂げてからやらかし、その後に起こったのが魏での諸葛誕の謀反。ここでやり遂げなければ呉の勝ちはないぜ!と兵を動かしたのが孫チンな訳ですが……今回はこの孫チンと、朱異についてちょっと考えてみましょうか。
この記事の目次
諸葛誕の謀反に乗じて寿春に援軍を出す
まずは257年のこと。魏で諸葛誕が謀反を起こしました。この際に孫チンは朱異に、寿春へ救援に向かわせます。
しかし既に諸葛誕のいる寿春は包囲軍に囲まれており、朱異の援軍はこの包囲軍をやぶることはできませんでした。
それで諦めていては呉の武将などやってはいけません!朱異は丁奉と共に再びこの包囲軍を破るべく奮戦しましたが、やはり敗北しました。
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孫綝の命令に朱異が叛く
何度も何度も援軍を追い返され、怒りのボルテージが上がっていった孫チン。まぁ本当に上がっていったかどうかは分かりませんが、とりあえず再び朱異に包囲軍を突破して寿春への救援に当たらせようとします。
しかしここで朱異の中の朱桓の血が目覚めた(かもしれない)
朱異はこの命令を拒否したのです。流石同僚の命令が嫌で殺害事件を起こした朱桓の子……という風に褒められることはなく、朱異は陸抗の忠告も空しく怒った孫チンに処刑されてしまいました。
ついでに結局、寿春も落ちました(あーあ)。
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孫チンはダメダメだったのか?
この朱異の殺害の一件に関しては「孫チンは名のある将の朱異を処刑したから恨まれました」と書かれているので、朱異が命令にそわなかったのはそこまで非難されることはないでしょう。おそらくですが、朱異にも朱異の考え有っての命令拒否だったことでしょう。
ということは朱異を処刑しちゃった孫チンはだめだめチンだな!というのはまだ早計です。ちょっとここに至るまでの経緯も軽く紹介しましょう。
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孫チンは頑張って戦争を継続していた
さて孫チンがまず救援に行かせた際は、朱異は三万の兵を与えていました。これが迎撃されたため、再び丁奉らに五万の兵を与えて攻撃させます。決して良くある「無能な上官が碌に兵も与えずに戦えと言った」というような状況ではないのですね。因みにこの丁奉らが攻撃している際に「兵糧を焼かれて大変だった」という一件から、食料物資も用意されていたと思われます。
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朱異は魏の強大さに諦めた
もちろん、朱異も何もしなかったわけではありません。時に川を渡り、時に決死隊を率い、何度も寿春の救援をするべく様々な攻撃を行っています。この事からも、朱異が能力がなかったということはないでしょう。
敢えて言うならば、もうこれは敵が悪かったというしかありません。魏の国という強大さがひしひしと伝わってくる、そういう戦いであったのではないでしょうか。だからこそ朱異は出撃命令を拒否し、そうして処刑されたのではないかと思います。
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