華麗なる曹操の戦績、そんな乱世の奸雄の負け戦とは?

2022年4月6日


 

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曹操から逃げ続ける劉備

 

曹操(そうそう)」と言えば「三国志(さんごくし)」において戦で華麗なる戦績を誇り、その勝率はかなり高いと言われています。実際、要所で勝てたので、実質的に天下統一に近づいたと言えるのでしょう。そんな曹操、多くの勝利の戦績の中でも、「負け戦」はもちろん存在します。

 

赤壁の戦いで敗北する曹操

 

今回の記事では正史「三国志」をもとに曹操の戦績から「負け戦」をピックアップしてみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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とにかく負けない曹操

曹操と機密保持

 

曹操は若いころから兵法書を学び、名をあげてからも勉学を怠らなった、と言います。また、人材の登用にも長け、「夏侯惇(かこうとん)」「許褚(きょちょ)」と言った武を誇る者や「郭嘉(かくか)」「司馬懿(しばい)」と言った智謀を持つ武将たちを配下にしていました。彼らの力により、劣勢と思われた戦も勝ち戦にすることにも成功しています。

 

曹操にコテンパにされる袁紹

 

代表的な戦には「官渡(かんと)の戦い」があり、当初有利と思われていた袁紹(えんしょう)に対し、謀略と人材の差で曹操は見事勝利することができたのです。ただ、そんな曹操にも負け戦はありました。

 

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官渡の戦い特集

 

 

 

自分の好色が招いた「張繡」戦での敗北

張済

 

西暦197年、勢力を拡大する曹操に対し、董卓(とうたく)の残党である「張済(ちょうさい)」そしてその甥「張繡(ちょうしゅう)」は抵抗を続けていました。張済が亡くなった後は張繍が軍勢を継ぎ、曹操と対立します。

 

曹操と張繍(張繡)

 

その後張繡は降伏することになるのですが、ここで厄介ごとが発生します。曹操が張繡の叔父「張済」の妻を自分の側室にしてしまったのです。

 

賈詡と曹操と張繍(張繡)

 

これに対し、張繡は曹操に嫌味を言い、曹操はこれを恨み張繡の暗殺を計画します。しかし、この計画はバレ、張繡は曹操を奇襲し、曹操は敗走してしまいます。

 

絶命する典韋

 

この時曹操は「典韋(てんい)」や息子の「曹昂(そうこう)」と言った多くの武将を失ってしまいます。のちに張繡は曹操に帰順しますが、「曹昂」の弟で後の皇帝曹丕(そうひ)」は張繡を嫌い、嫌味を言っていたそうです。

 

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曹操孟徳

 

 

天下統一に待った!「赤壁の戦い」

赤壁の戦い

 

次に紹介する「負け戦」は超有名な「赤壁(せきへき)の戦い」です。袁紹を倒し、北方そして中原を制覇した曹操は天下統一を目指し、いよいよ南征を開始します。

 

曹操に立ち向かう劉備と孫権

 

手始めに荊州(けいしゅう)劉琮(りゅうそう)を降伏させ、そこから逃げた劉備(りゅうび)を敗走させ、次は江東の孫権(そんけん)を狙います。曹操は孫権に降伏を勧告し、孫権陣営の諸将は「降伏か、抗戦か」で揉めますが、降伏派が多くなっていました。

 

周瑜の魅力

 

しかし、抗戦派の周瑜(しゅうゆ)が呉軍の有利な点と、曹操軍の弱点を指摘し、孫権を説得。孫権は曹操との決戦を決意します。

 

赤壁の戦いで活躍する黄蓋

 

劉備軍を加えた呉軍と曹操軍は「赤壁」で対峙、圧倒的数を誇る曹操水軍は船を鎖でつなぎ、水上の要塞を作り上げていました。これに目を付けた呉軍は火攻めを計画、運よく激しい風が吹き、この作戦は成功し、曹操軍は敗走します。曹操は追撃されますが、何とか逃げ切りには成功しますがこの戦いで天下統一の望みは断たれたのでした。

 

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赤壁の戦い

 

 

劉備に要衝の地を確保される「漢中争奪戦」

曹操に降伏する教祖・張魯

 

「赤壁の戦い」で孫権、劉備に敗れた曹操は要衝の地「漢中」を狙います。漢中は宗教団体を率いる「張魯(ちょうろ)」が支配していましたが、これを降ろし、曹操は漢中の支配に成功します。一方「益州(えきしゅう)」を得てさらに勢力を拡大した劉備は漢中を狙い軍を動かします。

 

法正に敗れる夏侯淵

 

曹操軍は「定軍山(ていぐんざん)」で「夏侯淵(かこうえん)」が迎撃しますが、劉備軍の「黄忠(こうちゅう)」に斬られてしまいます。その敗北を受け、曹操自身が軍を率いて出陣、漢中奪回を狙います。しかし劉備軍は険しい地形を利用して、曹操軍を迎え撃ちます。

 

曹操軍の輸送車を襲う趙雲

 

曹操は数か月にわたって攻撃を繰り返しますが、劉備軍は「趙雲(ちょううん)」が計略を用いて大軍を破るなど活躍します。この敗北と、食糧供給も滞ったことにより曹操は漢中をあきらめ、「鶏肋(けいろく)」というお触れを出します。

 

楊脩(ようしゅう)

 

誰もこの言葉を理解することはできませんでしたが、唯一秀才で知られた「楊脩(ようしゅう)」が「鶏肋(鶏のあばら肉のこと)は捨てるのには惜しいが、かといって食べるところも少ない。殿は漢中を“獲っても得るものがすくない”と見たのでしょう。」と言い、曹操が撤退の命令をしたことを見抜いたのです。

 

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法正

 

 

三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

以上曹操の戦績において「負け戦」と思われる3つをピックアップしました。他にも負けた戦はあるでしょうが、大きなものはこれくらいでしょうか。

 

魏王に就任する曹操

 

曹操はほとんどの戦に勝ち、その勢力を拡大することに成功したのです。その勝率は一説には「八割」と言われるくらいです。言い伝えによると、曹操は陣中においても寝る間を惜しみ、兵法の勉強を欠かさなかったといいます。

 

曹操

 

「学びなおし」が叫ばれる今、曹操の姿勢には見習うところがあるかもしれませんね。

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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