ほんとうの太史慈
それでは史実での太史慈はどんな人物だったのでしょうか。
太史慈は若いころから学問を好み、郡の役人に採用されました。他の州ともめ事が起こった際に、彼は訴状を朝廷に届ける役目を与えられたのですが、「先に訴状を出したほうが有利」ということを知った太史慈は、初めに到着していた他の州の役人を出し抜き、訴訟を成功させました。
しかし、役人をだましたことで恨まれ、他の土地に逃亡することになります。
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孫策との出会い
訴訟の件で太史慈は有名になり、北海国を治めていた「孔融」に招かれます。そこで孔融は黄巾族に城を包囲されるのですが、太史慈は黄巾軍の隙をついて包囲を突破、援軍を呼ぶことに成功します。
その後は同郷の「劉繇」の元に身を寄せますが、そこに当時江東で名が知れた孫策が攻め込んできます。
ここで太史慈は孫策と一騎打ちを繰り広げますが、結果は引き分け、劉?は孫策軍にやぶれます。太史慈は抵抗を続けますが、敗れて捕虜となりそのまま孫策の配下となります。
その後は孫策に信頼され、劉表や曹操との戦いで功績をあげます。
曹操は太史慈の評判を聞き、配下に迎えようとしますが、太史慈は孫策の跡を継いだ孫権にも忠誠をつくし、曹操の誘いは拒絶しました。そして赤壁の戦いの直前の西暦206年に亡くなっています。6世紀に老子や荘子の専門家で知られた「太史叔明」は太史慈の子孫だそうです。
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三国志ライターみうらの独り言
いろんな創作物で「合肥の戦い」の太史慈は有名ですが、なんと丸ごと創作だったとは驚きです。ただ、それほど太史慈のキャラが立っていたということなのでしょうね。他にも「三国志演義」で勝手に蘇生された武将はいるかもしれませんね。
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