朱桓の息子、朱異の隠しきれない狂暴性は遺伝なのかについて考察したよ。

2022年4月29日


 

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三国志を解説するセンさん

 

三国志と呼ばれる時代は、黄巾(こうきん)の乱が起こってからの群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代、そこから広がっていく三国の時代、そしてその三国が滅んでいく時代……と追いかけていくと、長い時代が「三国志」となります。

 

その間に様々な英雄たちが生まれ、そして長い時代だけに英雄たちの子供たちも生まれてきますね。

 

馬超と羊

 

英雄の子たちと言われても評価は様々、中には「父君と違って家畜だ!」とか言われてしまうのもいますが……今回は正に父の子、というべき武将、朱異(しゅい)についてお話しましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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朱異は呉の猛将朱桓の子

朱異

 

朱異(しゅい)は字は李文といい、前述したように、呉の猛将、朱桓(しゅかん)の子供です。238年に、朱桓はこの世を去ります。朱桓はいつも配下の兵士たちに自らの私財投じて恩賞を与えていたこともあり、とても慕われていたのですが、このために朱桓の家は私財がなく、孫権(そんけん)は葬儀代を与えたと言います。

 

そうして朱桓の跡を継ぎ、騎都尉(きとい)となったのが朱異です。

 

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英雄の死因

 

 

 

若い頃から期待され文欽を破って名を挙げる

戦う朱異

 

朱異は幼い頃から朱拠(しゅきょ)に「聡明である」と言われ、更に孫権と同席して軍議を交わした際に、その応対に孫権は非常に朱異を評価しており、その後にわざわざ朱拠に「噂通りだな!」と声をかけたほどでした。

 

因みに朱拠は朱桓の従弟であり、朱異から見れば父親の従兄弟のおじさんくらいの人になる人物です。実際に朱異は父親が亡くなった後、樊城攻めで功績を挙げ、文欽(ぶんきん)を打ち破るなどの働きを見せています。しかし既に孫呉の未来には陰りが見えているのでした。

 

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諸葛恪の采配に我慢できずに暴言

諸葛恪と仲が悪い朱異

 

そして孫権亡き後、魏の大軍が攻めてきます。当初こそ水軍を使って勝利したものの、この勝利が仇となったのか、呉のロバさんこと諸葛瑾(しょかつきん)の息子、諸葛恪(しょかつかく)が合肥新城に攻め込みました。

 

三国志 剣閣のお城

 

しかし落ちない。張遼(ちょうりょう)満寵(まんちょう)もいないのに合肥(がっぴ)が落とせない。

 

ここで朱異は別の策を出すも、諸葛恪はこれを聞き入れず。怒って暴言を吐いてしまい、諸葛恪に兵士を取り上げられてしまいました。

 

諸葛恪に暴言を吐き兵士を取り上げられる朱異

 

……この辺は何というか、朱桓の子ですねぇ。

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

諸葛恪の死後

孫綝の命令を無視した朱異

 

さてこれ以降、朱異は、というよりも呉は追い詰められていきます。諸葛恪は既に死んでしまった後ですが、朱異は孫チンの元で働くことに。そして257年に魏で諸葛誕(しょかつたん)が謀反を起こしました。ここで朱異は孫チンの命令を受けて援軍に行きます。

 

しかし先行した文欽らは寿春(じゅしゅん)に入れましたが、朱異は包囲軍に阻まれてたどり着けません。

 

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孫綝に盾突いて絞殺される

孫綝に絞殺された朱異

 

何とか包囲軍を破ろうとするも失敗。その後は丁奉(ていほう)と共にまたこの包囲軍を攻撃するも、やはり破ることはできず。苛立った孫チンは再び朱異に出撃を命じるも、朱異はこれを拒否。

 

孫皓に対して戒めの手紙を書く陸抗(りくこう)

 

怒り狂った孫チンは朱異を呼び出し、その際に陸抗(りくこう)がこれを警戒するようにというも朱異はこれを聞き入れることなく、赴いた先で孫チンによって絞殺されます。

 

命乞いする孫綝

 

しかし結局、孫チンは寿春援軍には失敗し、この一件で多くの人々の恨みを買うことになりました。

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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