呉と魏が何度もぶつかったのが「合肥の戦い」です。「合肥」という場所は戦略上重要な場所で、ここを制するかどうかは国の行方を左右するほどだったといいます。
この戦いで活躍した、と言われたのが呉の武将「太史慈」です。しかし、この活躍は「史実と違う」らしいのです。今回の記事ではそんな「太史慈」と「合肥の戦い」の真相に迫ってみましょう。
「合肥の戦い」とは?
「合肥の戦い」は「合肥城」の争奪戦になります。「合肥」は魏、呉ともに戦略上重要な位置にあり、そこを取ることは今後の勢力拡大に大きく影響したのです。
実は合肥での戦いは何度も繰り広げられており、西暦208年に始まった戦いはなんと253年まで続いています。
今回の記事で取り上げるのは、最初の208年の戦いになります。その戦いのきっかけは、「赤壁の戦い」で曹操が敗れたのち、勢いに乗った孫権軍が合肥城を攻めたのが始まりでした。
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張遼、合肥を守る
合肥の城を守っていたのは「張遼」「楽進」「李典」と言った戦争では名の知れたメンバーでした。中でも「張遼」は数々の戦で功績をあげた名将であり、合肥城の戦いに至る前の呉軍との小競り合いでも冷静に対処をしていました。
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小説「三国志演義」での張遼対太史慈
ここからは小説「三国志演義」から「合肥の戦い」を見てみましょう。
曹操軍、孫権軍が合肥周辺で対峙する際に「一騎打ち」が偶発的に発生します。そこで曹操軍からは張遼、孫権軍からは太史慈が代表として一騎打ちに臨みます。二人は何度も何度も打合いますが決着は尽きません。
その間に張遼の副将「楽進」が孫権の首を取るべく突進、呉軍は乱れ、張遼も孫権を追いかけます。しかし孫権は周囲の武将に守られ、戦場を離脱することに成功するのです。
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太史慈、死す!
張遼は緒戦に勝利しますが、警戒を怠らず、全軍に鎧を着たまま寝るように命じました。その張遼の予想は的中し、太史慈率いる呉軍が夜襲を仕掛けます。夜襲を察知していた張遼は慌てずに応戦し、太史慈は矢を受け、その傷がもとで亡くなってしまい、呉軍も大きな損害を受けました。
太史慈は「男子たるもの、やがては天子の階(きざはし)を上るべきなのに、志半ばで倒れるとは無念だ。」という言葉を残しています。
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太史慈は合肥で死なず?
ここまで「三国志演義」より合肥での太史慈の死を見てきました。
それでは史実では合肥で太史慈はどんな活躍をしたのでしょうか?
実はそもそも太史慈は「合肥の戦い」に参加していないのです。史実では太史慈は「赤壁の戦い」の2年前に死んでおり、「合肥」での動きは「三国志演義」の完全なる創作だったのです。おそらく「合肥の戦い」を盛り上げるために派手なイメージがある太史慈を引っ張りだしてきたのでしょう。
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