劉備の子供、というと皆さんは誰が真っ先に思い浮かぶでしょうか。やはり二代目皇帝となった劉禅が印象深いでしょうかね。実は劉禅意外にも劉備には息子がいるのですが、伝承も少なく、記録もあまり残っていません。
そこで今回は敢えて、劉備の養子である、一部界隈ではとても有名な劉邦……じゃなかった、劉封についてお話したいと思います。
この記事の目次
劉封は光武帝に繋がる名家出身
劉封は劉備の養子です。当時、劉備は未だ自分の土地が定まらず、世継ぎもいない不安定な時代。荊州に滞在している時に、まだ若い劉封を見込んで養子に貰ったようです。
因みに劉封の出自は寇氏の子で、長沙劉氏の甥とされているので、実は光武帝にも縁のある、ちょっとした名家の出身でもあります。そういう点も含めて、劉備は養子にしたのかもしれませんね。
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劉備に阿斗が誕生し立場が微妙になる
しかし、その後劉備は後の劉禅を授かります。実子が生まれたので、後継者は当然ながらそちらが優先されるので、この時点で劉封の立場は危うくなります。
ですが益州攻略では20歳そこらの若さでありながら活躍。武芸にも気力にも他者より優れていたとされ、各所で武功を挙げました。そして平定後、劉封は副軍中郎将に任じられます。
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関羽を見殺しにしたとケチをつけられる
そして219年、上庸に駐屯したことが運命の分かれ道。樊城攻めをやっている関羽から援軍要請が来るも、これを「治安維持」のために拒否。結果、関羽は呉に捕縛され処刑されました。
一応、上庸という土地を押さえておくことは決して悪手ではなく、そこを放置して援軍を出して駐屯地を取られました……では話にならないので、劉封の判断は完全な間違いとは言い切れません。
しかし「関羽の援軍要請を拒否した」「関羽が死んだ」ことで、劉邦と孟達は劉備の恨みをかってしまいます。
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殺される事を知りながら魏に寝返らない劉封
220年、関羽の一件で劉備から恨みをかってしまったと考えた孟達は出奔。魏に下っただけならまだしも、たくさんの兵士まで連れていってしまいます。
更にそんな孟達は(なぜか)曹丕にめちゃくちゃ気に入られ、上庸に攻めてくることに。
劉封は孟達から寝返りを進められるもこれを受け入れず、敗北。その後は諸葛亮の進言もあり、死を賜ることに。
「孟達の言葉に従わなかったことが残念だ」
劉封は最期にそう言い残し、それを聞いた劉備は涙を流したと言われています。
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三国志演義では最初から死ぬ予定
そんな劉封は三国志演義ではよりドラマチックな演出が……悪い方にされています。そもそも養子になった時から関羽に「兄者は既に劉禅様がいるのにどうして養子を取ったんですか。お家騒動の原因になりますよ」と言われるという、後の暗雲を示唆するようなシーンが。
これは三国志演義の元になったと言われる三国志平話でも同じで、こちらでも関羽の進言から劉備の後継者を外され恨んでいた……というエピソードが追加されています。何とも皮肉めいたシーンですね。
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劉封の悲劇は韓信に似ている
さて今回注目したいのは、そんな劉封の最期です。孟達とは違って魏に逃れなかった劉封。しかしその存在は後の争いの元ともなると考えられ、死を賜ることに。
そして最期には「孟達の言葉に従わなかったことが残念だ」と一言。それを聞いた劉備号泣……こんな展開、どこかで聞いたことがありませんか?
そう、劉邦と韓信の最期です。
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劉封と韓信の繋がりは不明
嘗て、韓信はカイ通から劉封は信用ならないとして、独立するように勧められました。しかし韓信はこれを聞き入れず、カイ通は出奔します。その後、紆余曲折のちに韓信は処刑されることに。
最期に韓信は「カイ通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言ったために、劉邦は激怒したと言われています。はてさて、これは偶然でしょうか?
劉備には劉邦をモチーフとしたようなエピソード幾つもあることを考えると、どうにも劉封とのエピソードもどこか韓信と劉邦を演出したような印象も感じてしまいますが……真実は、分かりません。
三国志ライター センのひとりごと
韓信と劉封の最期、並べてみると何だか意味ありげに見えてきますね。劉邦は怒り、劉備は涙したというのも何か比較されたような印象も受けます。真相は不明ですが、もしかしたら意識された可能性も、と考えてみました。
個人的には記録された段階で意識して……というよりは、劉封が韓信を意識してこう言った、とすると、より劉封のキャラクター性が増すと思うのですが……どうですかね?
たまには劉封に意識を向けてみたくなる、筆者でした。どぼーん。
参考:三国志蜀書劉封伝 史記淮陰侯列伝
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