三国志を読んで、三国志演義を読んで。まあ色々と違いが多いことはそれはそれで三国志の沼を広げる一要因となり得る訳です。しかし良く気になるのが「劉備が慕われる理由」とは何ぞや?というもの。
仁徳に満ち溢れて、ちょっとすると線の細めなイケメン枠で描かれる三国志演義劉備……実際にはそれはもうどんな姿だと言いたくなる奇々怪々な容姿をしている訳ですが、そんな劉備はどうして多くの人に囲まれ、蜀という国を建国するに至ったのか?
実はその劉備が慕われる理由に、劉備が皇帝の血筋を引いていた事実が隠されていた?
それ即ち天子としての「徳」である!今回は劉備の慕われる理由、考えてみたいと思います!
この記事の目次
ちょい悪系劉備青年(慕われてはいた)
ではまずは劉備の出生に付いて、皆さんも良く知っていることと思いますが、おさらいしていきましょう。どうやら劉備青年は読書、勉強は余り好ましく思ってはいなかったようで。寧ろ好きなものは遊ぶことで、見栄えのある衣装を好んで良く着ていた……つまりお洒落さんでもあったそうな。
またこの頃から人との関わり、交流を良くしていたそうで、男気のある御仁たちと良くつるんでいたと言います。若者たちは良く劉備を慕い、争うようにその後をついて行ったと……しかし、その一方で感情を表に出さない所もあり、その点では他の人物とは一線を画すような人であったのでしょう。ふむ、若い頃から人好きする性質であったのですね、劉備は。
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劉備の血筋の謎……不明点が多すぎる!
そして劉備で避けては通れないのが、その出生、というか血筋です。劉備は「高祖・劉邦の血を引く劉氏の末裔」とされています。とは言え、これは本当であるかはやや疑問視されています。ただ間違えてはいけないのが「絶対に違う」とも言い切れない所。
劉備の祖は前漢の景帝、第九子・中山靖王・劉勝……は、子供孫合わせて120人とも言われる血筋豊富なお方、更にはそこから300年も経っているので、末裔と言われたらそらたくさんいるわね……と言う状態で、真偽を確かめるのも難しすぎる一件なのです。個人的にはそんな中だからこそ「劉氏の末裔」を名乗った、という劉備も好きなのですが……それはまた別の話ですね。
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三国志演義での仁徳の君、劉備という存在
ここで三国志演義の劉備に付いても少し話しましょう。三国志演義の劉備は、主に「仁君」「仁徳の人」という面を強調されています。
これの背後には「儒教思想」による最高の徳目である「仁」を当てはめた……もしくはそうすることで、劉備のライバル的なち位置である曹操との対比、もっというと貶め部分もあるかと思われるのですが。
ここで気になるのが「仁徳」という言葉。仁とは人を思いやることであり、儒教思想で最高の徳目である……では、徳とは?ここから、劉備の血筋の影響が感じられてくるのです。
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徳とは何ぞや?徳とはどのような人物にあるべきか?
さて徳とは何ぞや、というのも中々に難しいのですが、こと儒教に関してはこの徳、大変重視されます。
何故なら徳とは「統治者に備わっているもの」と考えられるからです。とても簡単に言うと、統治者に徳が無ければ天下は乱れて行ってしまうのですね。漢王朝の権威失墜、それもまた、徳が離れたからと考えられます。
そこを突いたのが「蒼天既に死す」な訳ですが……ここで黄巾賊のトップ、張角もまた、カリスマ、言い換えればある種の「徳」の持ち主だったとして。統治者に必要なものが「徳」とするならば、それはどこから受け継がれていくのか?
そこで、劉備の血筋に注目です。
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劉備、実はほんまもんの漢王朝の血筋覚醒者だった!
徳とは、何か良く分からないふわっとしたものではあるけれども、それは統治者に欠かせないものでした。この時代の統治者とは当然ながら皇帝です。つまり皇帝の血筋には「徳」が備わっているもの、とも考えられます。
しかし長い歴史の中で、漢王朝の血筋からは、皇帝の血筋からはその徳が消えた……そういった一種の才能が、発露しなくなった。
そこに現れたのが出自が定かではない劉備、ですが間違いなく、曹操が「天下を治めるのは僕と君のどっちか!」と言い切るような「徳」の持ち主……そう、劉備が慕われる理由、それは間違いなく「徳」であり、それは皇帝の血筋だからこそ現れる特殊能力のようなものだった。
つまり劉備はその定かでない出世を、その謎に人に慕われる能力で証明した……とは考えられないでしょうか。多くの場合でちょっと疑いを持たれる劉備の漢王朝説。それは実は徳と結びつけることで証明される可能性、あると思います。
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劉備の持っていた天子の「徳」
ここでもう一つ、徳という文字に付いて少しお話します。徳という文字には「まっすぐな心で人生を歩む」という文字の成り立ち、意味が含まれているのです。
基本的に劉備の目的は漢室復興であり、その敵として曹操を見定めています。それが詭弁だったのか、真実の思いであったのか、それはここでは問いません。しかし強大な敵である曹魏を相手に、劉備は何度も折れそうになりながらも、立ち向かい続けた。立ち向かうことができたという劉備はこの「徳」という意味に相応しい生き方をした、と考えられていたのでしょう。
それは嘗ての高祖、劉邦が幾度もの苦難を乗り越え、項羽に打ち勝って漢王朝を開いた時のように。そう考えると、劉備の徳は漢王室の血、天子の徳の持ち主であった、と言えるのではないでしょうか。
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まっすぐ人生を貫いていくということができた男、劉備
さて、自分を貫くと言うのは難しいことです。ましてや乱世の中、自分自身の考えを貫ける人間というのは時に眩しく人々の目に移ることでしょう。だからこそ劉備は慕われ、多くの人に支えられたのではないでしょうか。それこそが正に、人徳、であったのではないかと思います。
どのような理由があれ、彼は自分の、国の悲願を貫こうとした。だからこそ劉備は、三国志が終わって尚、多くの人に慕われるのではないかな、と思います。
三国志ライター センのひとりごと
劉備は自分の悲願、漢室復興をずっと掲げてきました。そしてその道がどれほどに困難でも、突き進み続けた。ですが劉備は、たった一度、それを忘れてしまいます。夷陵の戦いは、本来ならば、漢室復興を見定め、曹魏を敵として突き進む劉備が、やってはならない戦いでした。
だからこそ劉備は、あの時敗北した。敗北して、立ち直ることはできなかった。私情で敵を見定め、天子の選ぶべき道を選べなかった。もしかしたらそこで、劉備の徳は失われてしまったのではないかと。
ちょっと愚考する、筆者でした。ちゃぽん。
参考:蜀書先主伝
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