「銅雀台」は、三国志演義においては、赤壁の戦いの前に孔明(こうめい)が「曹操(そうそう)が、大喬(だいきょう)と小喬(しょうきょう)の2人の絶世の美女を銅雀台に侍らせて晩年を過ごしたいとか言ってたよー」等と呉の周瑜(しゅうゆ)に伝えた時に出てきていることは結構有名でしょう。
実際、曹操(そうそう)の五男の曹植(そうしょく)の詩である”銅雀台の賦”では、そのような事が詠われています。大喬(だいきょう)は呉の孫策(そんさく)の妻で小喬(しょうきょう)は周瑜(しゅうゆ)の妻なのだから、
そんなことを言われたら、呉の人は怒って何としてでも曹操(そうそう)を潰そうとするだろうという孔明(こうめい)の策です。さて、二人の女性は置いておいて、ここで出てくる銅雀台とはそもそも何なのでしょうか。
天下で一二を争う美女とともにその名を出されることからも、何か途轍もない物であることは容易に想像できますが、一体どのようなものだったのでしょうか。今回はこの銅雀台について、ご説明します。
この記事の目次
銅雀台とはハイクオリティな宮殿!
銅雀台とは曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)という都(現在の中国の河北省邯鄲市 臨漳県 三台村)に210年の冬に建造した宮殿です。また、当時財と富を最も多く所有していた曹操(そうそう)が造らせたため、かなりクオリティの宮殿だったそうです。
銅雀台は3つの「台」からなり、中央は銅雀台、左には玉竜台、右には金鳳台が建てられています。それぞれの高さ10丈(30m)に及び中空には二条の反り橋が架けられ、銅雀台を中心に台と台の間を行き来できるようになっていました。また、周囲に巡らされた千門万戸(多くの家々の意)も後漢の至高の芸術に彩られていました。当時にしてみれば最上級の豪華絢爛な宮殿でした。
銅雀台を建てた鄴(ぎょう)という地は・・・
鄴(ぎょう)は、遠征の際の本拠地となりえる場所でした。当時は許昌(きょしょう)を都としていましたが、表向きには都は献帝のものでした。そのため、第二の都として曹操(そうそう)は鄴(ぎょう)を選びました。
また、鄴(ぎょう)はもともと袁紹(えんしょう)の領土で重要な拠点とされていましたので、そこを制圧した曹操(そうそう)もそこを拠点としたのでしょう。加えて、袁紹(えんしょう)の領土であったこともあり、その縁者が住んでいる地でもあるので、反乱を防ぐためにもここに睨みを利かせる必要がありました。鄴(ぎょう)は第二の都であり、”曹操の都"であるため、そこに銅雀台を建てたということです。
なぜ銅雀台を建てたの?
銅雀台はかなり豪華な宮殿でしたが、そもそもなんのために建造したのでしょうか?
建造理由は、いくつかあると考えられます。
まず、「銅雀台」という名前から考えてみましょう。名前の由来は、ある農民が畑を耕している時に、畑の中に青銅でできた雀が出てきたため、漢の丞相である曹操(そうそう)に献上したそうです。曹操(そうそう)はそれに大いに喜び、それを祝うため銅雀台の建造を考えたと言われています。
ただ、これでは「それだけの理由で?」というツッコミがあります。おそらく、これはきっかけと名前の由来に過ぎないのでしょう。
で、本当の理由は何なの?
銅雀台の名前の由来ときっかけは分かりましたが、何か本当の理由があったと思われます。銅雀台は、当時にしてみれば、前例の無い大宮殿であり、建造には長期間を要していたと考えられます。
となると、建設開始時にその理由があると考えられます。210年に完成した銅雀台ですが、8年がかりで建造されたとされています。となると、建設開始したのは、202年となります。この年に何があったのか、曹操(そうそう)が何をしていたのか、が極めて重要な理由となるでしょう。
202年は、曹操(そうそう)の長年のライバルの袁紹(えんしょう)が亡くなった年です。袁紹(えんしょう)は官渡・倉亭の戦いにより敗北し、202年に袁紹(えんしょう)は病没してしまいます。袁紹(えんしょう)の領土である鄴(ぎょう)を奪ったのも大体はこのあたりになります。
長年の栄華を極めていたライバルの袁紹(えんしょう)が遂に倒れたとあれば、おそらく次の覇者となるのはそれを打ち破った自身である、と曹操(そうそう)を初め皆が考えるでしょう。そうした背景から、大宮殿を造って威勢を示す、ということを計画したのだと考えられます。
冒頭で述べたように、”銅雀台の賦” によれば、曹操(そうそう)は「宮殿で美女とイチャイチャしたい」という考えがあったようですが、その根幹には自尊心があったと思われます。贅沢ができる事は即ちそれほどの権力を持っているからに他なりません。曹操(そうそう)は自身の権威を示すために建てたと考えられます。
銅雀台完成までの経緯と背景
自身の権威を示すため、というのは建造開始した理由として非常に分かりやすいですが、建造を終え、完成した時はどのような情勢だったのでしょうか。
210年といえば、その前に208年の赤壁の戦いで、曹操(そうそう)は多くの犠牲を払ってしまいました。この時に「もはや曹操(そうそう)も終わりか・・・。」という雰囲気が流れます。
赤壁の大敗の直後、曹操(そうそう)の領土の南郡を、孫権(そんけん)や劉備(りゅうび)の勢力が進撃しています。逆に曹操(そうそう)は大敗と長年の戦の日々により、軍事力は減り、兵は疲れ果て、戦どころではなくなります。
そのため、内政を主として戦を避けねばならなかったのです。とはいえ、敵がそんなことを待ってはくれませんので、「外敵から国を守り」つつ「内政で経済力を養う」必要がありました。
209年、曹操(そうそう)は自ら合肥に出陣しましたが、この出陣において戦の記録はありませんでした。恐らく、この時の曹操(そうそう)は兵の調練を行う等して、やる気十分な様子を見せることに専念することで、外敵が来ないように牽制していたと考えられます。
同時に、この頃「求賢令」を出して、有能な人材の発掘を行いました。
これにより、自軍の軍事力の足場を固めたのです。
さて、銅雀台もこの時期に完成することになりますが、銅雀台の完成もこうした流れで見ると、
「曹操(そうそう)は未だ衰えていない。それどころか、まだまだ力を残している」
と思わせるような効果があったのではないでしょうか。
実際、そこで何をしていたの?
さて、完成した銅雀台ですが、実際そこでは何をしたのでしょうか。
大喬(だいきょう)と小喬(しょうきょう)の二人は手に入りませんでしたので、
”銅雀台の賦”は実現しませんでしたし、
建てた事で権威は示せたのだから、もはや不要?となりそうです。
しかし、せっかく作ったのだから、やはり利用していたと考えられます。
そこで何をしていたのか、に関しては、三国志演義によれば、宴会をやっていたようです。
銅雀台が完成した時に、「建造祝いパーティーをやろう」という流れになり、
重臣や諸将が一同に集まりました。
曹操(そうそう)といえば、頭には七宝の王冠に、緑錦のひたたれをまとい、
眩い光を放つ黄金の太刀を玉帯に備え、
光り輝く珠履を履き、最上級の“おめかし”していました。
そして、諸将とともに祝宴を楽しんだようです。
また、曹操(そうそう)が「景品出すからゲームをやろう。」と言い出したので、
許褚(きょちょ)や徐晃(じょこう)、曹洪(そうこう)、夏侯淵(かこうえん)、
その他、様々な武将が武芸を競い合い、楽しんだようです。
通常の戦では味方同士で実力を競うことが無いものだから、
自軍内でナンバーワンを決めようというシーンは中々珍しい光景です。
生死を賭けた戦がメインの三国志で、お遊びの競い合いがあった数少ないシーンでもあります。
銅雀台の末路
さて、膨大な富と尊大な権威から作られた銅雀台はその後どうなったのでしょうか。
213年には銅雀台の南側に「金虎台」が建造されました。
さらに、214年には銅雀台の北側に「氷井台」を増設されました。
以降、銅雀台とこれらを合わせて「三台」と称されるようになります。
しかし、権威の象徴である銅雀台も終わりを迎えます・・・。
銅雀台は元の時代になると洪水によって破損してしまいます。
さらに、明の時代には洪水で大半が倒壊してしまうという悲劇が起こります。
現在では、大部分が地中に埋もれて、もはや外見はただの土の塊にしか見えなくなります。
三国志ライターFMの独り言
銅雀台は、ただの宮殿ではなく、三国志でも中心となって戦っていた
曹操(そうそう)がそのライバルたちと争う中で作られた自身の権威の象徴であったのです。
つまりは、三国志時代の英雄の戦いの名残とも言えます。
その銅雀台の末路が、権威を象徴していた銅雀台が地中に埋もれて行くという最後であったのは、
かつての偉人たちの業績が風化していくようで、哀愁というか物悲しさを感じさせますね。
しかし、その偉業は「三国志」として語り継がれています。
そう考えると、“物質的なもの”としては無くなったとしても、
そんなことはお構い無しに語り継がれるほど、“銅雀台の建設”は偉業であったと考えることができます。
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